文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

平凡な人間は毒親を描くことができるのか

前にツイッターでおすすめされたツイートに、検索できないくらい瓦解した断片しか思い出せないのでアレだが、要は「なんの挫折も味わうことがない、一般ピープルの奴でも、不幸な作品を書いていいのだ」というツイートがあり、いいねしたはずだが消えた。

折しも、就労支援で文学に敏い人がいて、その人にも通じるような話題を口からひねり出していた時、桜庭一樹について言及した。

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桜庭一樹の『少女を埋める』について、ことばと vol.5 を読んだとき、今となっては古本屋に売ったので確かなところを列挙できないのが心苦しいが、少女を埋めるという話は実は創作なんだということをここで私は初めて知った。つまり、少女を埋めるを読んで、桜庭一樹をわかった気になっているのは違くて、本当は桜庭一樹を何にも読めていないのだということになる。

桜庭一樹の文章は、悪趣味で、確かに面白い。その面白さの成分は桜庭一樹の性格の悪さにあるのだとすれば、なんでこんなにファミリーポートレイトが面白いのか納得できる。桜庭一樹の性格が悪いかどうかを裁判するって、なかなか胆力のあることだ。でも、少女を埋めるを書いたことで、私の中で桜庭一樹がもっとややこしいことになったし、桜庭一樹朝日新聞の人と仲が悪くなったし、いいことがない、禍根を残した作品だと思う。第一、少女を埋めるは、桜庭一樹の十数冊の著書を好んでないとのめり込めない魔力がある。

桜庭一樹について言及すると、どういうわけか、桜庭一樹の書いていることばかり白熱して、桜庭一樹がどんな暮らしをしているかについては結構忘れがちで、そういう節があるから桜庭一樹がとんでもない悪女に映ったりする。桜庭一樹を読むポイントとしては、悪趣味がキーワードだと思うけど。

桜庭一樹中村うさぎに賞をもらった時、いにしえのウィキペディアでは「汚い大人に殴られた少女たちを救いたい」という旨のことを表明していたと記憶しているが、少女を救うというミッションを自分に課す意味がわからない。基本、女の人というのは天気に即して咲いていくものである。運が悪くて、嫌なおじさんに中出しされても、運が悪かったとして生きるもんだ、みたいな、そんな古い考えが1990年後半にはまだあった。私にはわかる。なぜなら庵野秀明ラブ&ポップを見た。少女たちを救う、ということは、桜庭一樹がそうしてほしいから、自分もまた汚い大人に殴られた少女なので救われたいから救っているのか、それとも当時の傷みをわがことのように考えて捉える感性なのか。わからない。

桜庭一樹は「道徳と言う名の少年」という官能小説を書いているが、あれは書き手が男でも女ともとれない、しいて言うならば修道女が読み上げているような感覚のする文章を描いているのが好きだった。そのスタンスは今も変わっていない。

本題に入る。桜庭一樹がもし平凡な人間だったら、毒親を描き切っていることは、なんでそれができているのか。わからない。桜庭一樹はゲーム会社のシナリオをやっていたらしいので、そこで目の前にファンがいて、その人たちを叶えるために書いていたのだとすると、そこでミッションである「汚い大人に殴られた子たちを救いたい」という姿勢が固まったのだろうと思う。

もし桜庭一樹自体も毒親持ちだったらどうなんだろう。私は、桜庭一樹がきな臭い神主との結婚を迫られたというのがフェイクであっても、そこは気にならない。それよりも前に、桜庭一樹毒親持ちだったら、看板に偽りありではないか?と思った次第だ。

 

ここから余談だが、桜庭一樹の本が好きで、桜庭一樹の描いたモチーフで創作をやりたいと思っている。しかし、桜庭一樹の修道女のような語りとはかけ離れてしまう。育ち、だよなあと思う。やっぱ電波少年みたいな文章しか書けないのかな……