文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

祈る技術

祈りというのは、例えばお母さんとセックスしているという常識を覆す状況下にある中で、お母さんと結婚したいという常識を覆すくらいのテーマでないと取り組む価値がない。あなたが推しにとってのなにかになりたいのなら、推しがまず世の中の常識を覆すだけの代物でないといけない。

推しは昨日今日明後日全部違っていい。たまたまテレビに映ったクロちゃんを、この人を王子様と見立てて生きると決める人もいるだろう。どんなにクロちゃんの口臭がひどくても、王子様と決めてかかったからには、なんでも受け入れるものだろう。

しみけんは幼稚園のころから好きな女の子のうんこや経血を摂取していた。好きな人の一番汚いものを手に入れる甘美。それが祈りに終わる人もいれば、しみけんのように何が何でも実現させる胆力のある人もいる。

私は南海キャンディーズ山里亮太がロンドンハーツで落とし穴ドッキリにかかっている時、今の言葉で言えばこれからこの人を推すことによって、祈りを遂げようと考えていたことがある。祈りと言うのは、マスターベーションに代表されるが、このAVのシチュエーションに自分の爪を混入させるような気持ち、だと思う。とにかく人は主人公になるかどうかはさておき、自分が祈れる物語を渇望している。誰かが作ったチョコレートに、自分の髪の毛を混ぜて、オンリーワンのプレゼントをあわよくば誰かに食べてもらうことを渇望している。

祈りというのは魔女のやることで、昔私も魔女になろうかと思っておまじないの本など図書館で借りて読んでいたが、消しゴムに好きな人の名前を書くことですら常軌を逸しているのに、それを使い切るという根性は私にはないと思い諦めていた。魔女と巫女の違いは、魔女は呪いを貯金する。巫女は呪いを無化させるべく散財する。といったところだろうか。祈りを実現させるという筋は私は支持しないが、実現させたいのなら、ある程度技術はあるだろう。それを書こうと思っていて、書けなかった。

祈りの技術というのは、それだけ不幸を味わいつくすことだと思う。祈りを一つ叶えるためにコストをかけるということである。私なんかは、そのコストをかけるというのが腹立たしくてやれそうにないため祈りを実現できないままでいるが、本当に祈りをかなえたいのであれば、機が転じるまで、PRACTICE,PRACTICE,PRACTICE……なのだろう。

祈りと言うのは、かなえなくても、祈ってる状態でもうそれだけでいいから、叶う努力をしなくてもいいっちゃいいのだが、実際祈りをかなえたいとなると、辛酸をなめないといけない。辛酸をなめたとしても、かなうとは限らない。そういうもの。だって、まず、祈っていることがギフテッドなのだから。

私は祈っている。自分が救われることを。しかし救われるといっても、私はなんの罪も犯していない。というわけで、私は何をしたら人生が始まるのか、悩んでいる。祈るよりも前の段階だ。私は机上の空論をかれこれ5年くらいやっている。人生は始まらないままだ。