文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

どうしてそんなに文才あるんですか

言われてみたい質問に答える。

小説家になるということはいかに倹約家であることだ、と羽田圭介が言っていたけど、思えばあたまに浮かぶこと全部ツイートしている。ツイッターはログが回収しにくい媒体なので、本当にしがみつきたい知は忘却してしまう運命になるが、まずゴミから利益を得ようとする姿勢が大事なのかもしれない。

発想の逆転をしまくって、価値基準の感性を擦り倒すことが大事なのかもしれない。そのためには、好きな曲をえんえんと聴き続けること、同じものをえんえんと食べ続けること、同じセリフばかりえんえんと反芻すること、だと思う。

私はこういうことが大事だと思っているけど、人によっては恐ろしい、あり得ない、と思うらしい。これは主観性を強固にするだけのメソッドなのだ。

文才というのは私は文才があると認められているが、同じことをしているとある人では文才がないということになるのが難しいところである。

文才とは言いたいことをちゃんと言う技術だと思っている。ゼミの先生が「独りよがりにならないこと」「伝えたいことを伝えること」を大事にしなさいと言っていたけど、オナニーをオナニーじゃなくてデータとして提出するみたいな発想はできてきたけど、伝えたい事を伝えるって、伝えたい事なくなっちゃったな……と思った。なぜならツイートで小出しにツイートしているので、心の中に溜まっていかず、小説化できない。まあいくつかネタはあるけど。

関係ないけど、桜庭一樹が好きで、新刊を見るに、自分をネタに小説を書いて欲しい感じがしたので、書くかあ~と思っているけど、桜庭一樹ってはっきり言うけど藻屑じゃないし、紗沙羅ではない。ただ、キャラクターというぬいぐるみを量産して、その仕事柄押し黙る作家という使命からはみ出したい気持ちが見え隠れしているのは伝わる。私はそれをインスタントに3000字にでも書かねば。と思っているのだが、あんなに桜庭一樹を読んでいるのに、桜庭一樹について何も想起されないのは、多分、桜庭一樹を作家として読むのを避けていたからだと思う。こんなに小遣いやりくりして網羅した刊は多いのに、最近すばるを購読して桜庭一樹を読んでいる人に比べたら、負けてしまう。それに、悪趣味で小説を書いていた時代を桜庭一樹は葬ろうとしている。その岐路に、私は小説で一矢報いたいが、どうだろうか、時間が捻出できない。

今から書いてみようかな。書いてみるか。

 

 

わたしは真理子。真理の子。だけど、いつも、真理じゃないことを好んでしまう。哲学家が真理について問う時、私のことを言われているようでちょっと気が縮む。しかし、真理について話すとき、たいてい真実じゃないのだ。その反転性を東京で編集者にしがみつきながら生きていくうちに覚えた。リベラルは愛国心なのだ。

わたしはホットケーキミックスでできた一本の穴だ。油で揚げるとドーナツになる。ナッツなどの衣をなるべくつけて、それがいわゆる私の創作だ。トランス脂肪酸をジャンクに使い、はちみつをどばどばかける。それがみんなの野心であり、結局一番好きなものだと思っていた。

しかし、私は年を取った。年を取って思うのが、本当にホットケーキが好きなのか?ということ。日を追うごとにわからなくなる。しかし、創作することは好きだと言えるし、文字を書くことで私自身がなんども救われてきたので、これしかないのだと思っている。私はホットケーキなんかより一杯のコーヒーのほうが理想的だったなと思うことがある。一瞬だけ。すぐにホットケーキにしかなれないな、と悟るけど。

私が描いてきたキャラクターはみんな、美少女のぬいぐるみだ。私が話しかけると、みんな愚痴がこぼれる。こんなもんじゃなかったはずなのに。そうね。機転をめいっぱい利かせながら救う方法を考えている。ごめんね、あなたの高校は壊れてしまうし、あなたの愛する人に明日はこない。だけど、だけどね。永遠じゃなくなったとしても、案外いいことってあるんだよ。

そう思っているのに、そういう話が書けないのは、私がそういう日を一番待望しているからなのだろう。しかしながら凝固する血液の夥しさを日に日に感じている。私はとうとう、ソードのエースなんかじゃなくて、ソードのキングにまでなってしまっている。キングになってしまったら、できないことが結構ある。つまり、ホットケーキを高級化しないといけなくなる。

だから、初心に帰るメソッドはなにかを考えて、漢詩を勉強している。漢詩を勉強する度に、日本語に溺れる。文学とは何かを考える時、ああ私は真理の子だから、芯を食えないんだろうなと思う。ジャンクフードみたいな創作をやってきた。やったつもりだ。私がファインアートになったら、世の中おしまいとすら思う。なのに、権威になっているのだから不思議だ。私はパンにおいて無塩バターとは何かを考えるようになった。ヌーベルバーグ、正直嫌いじゃない。

ジャンクフードにおけるバターの存在価値って何だろうと思うけど、マーガリンのほうが安上がりだ。ケーキを焼いていると、バターであることの必要性は確かにわかる。野宮真紀、フランス、美徳、東京、渋谷系、などなど連想していくと、贅沢をする、という旨味にバターはあるわけだ。

私の作品において、ハイカルチャー化を図るために、私小説的なものを書いたのは書いたが、炎上したため、色がついてしまった。やはり私は、ジャンクフードなのだとほくそ笑む。紗沙羅、どんどん、食べていけ。私を食うのだ。どんどん、平らげて行け。私の文字で、統合失調症を無化させていくのだ。

紗沙羅は太っていくが、私は瘦せていく。一番美味しいのは、若い時に食べた、夜中のハーゲンダッツ。今はコーヒーしか飲めない。今は、あんなに渇望していたジャンクが身体に合わなくて、本当に美味しいものしか食べられない。東京に美味しいものは、本当に高くつく。

私は、紗沙羅みたいに、人生において戦争が起こった時、戦闘態勢になれる気がしなくて、コーヒーに砂糖を入れて、誤魔化して、なかったことにする。私ができなかったことのかがやきを、キャラクターに託して、私が私の世界を飛び越えたような気持ちになる。だけど、実際に紗沙羅はいるのだ……いるのだ、いるのだ……と、思う。(会ったことある)

過去のかがやきをたまに手にとり、眺めて。あの頃はもう二度とやってこないことを懐かしんで。いじめなんかなくなるから、あの頃の悪趣味は忘れて。私は、前に進まないといけない。わたしを忘れたの?なんて、思わないでね。その代わり、私は、おいしいパンケーキを作るよ。いつにでもおいしく食べれるように、なるから、待っててね。

 

 

桜庭一樹さん、どうでしょうか。また書き直します。