文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

平成30年のシンデレラ

今日はやけに頭痛が止まらない。小学校の理科室で見た脳味噌の模型にひびが入る画が浮かぶ。だけどあの人のために食事を用意しなければ。

城野灰音は馬鹿でかい冷蔵庫からインカの目覚めとか富良野産の人参とかを取り出した。灰音自身は普通のじゃがいもやにんじんの方が美味しく感じるのだが、旦那である央治はこれで育ってきたので彼に愛されるためにはこれで肉じゃがを作るしかない。

肉じゃがが完成するまでに灰音の身の上話をさせていただくと、灰音は母親を幼い頃に亡くしている。とても貧しい家庭で、父親がたいそう美丈夫だった。そういうわけで、父親は成金の娘と再婚した。この成金の娘が悪かった。成金の娘にも連れ子がいた。この連れ子も悪かった。

成金の娘は灰音の父親の魂胆がよくわかっていた。つまりは、どう自分が足掻いても灰音の父親にとって一番は灰音の母すなわち灰音であり、彼は彼女を守るために自分とわざわざ結婚したということ。それでも成金の娘は灰音の父親の顔が好きだった。
彼女は彼との子供を渇望した。しかし成金の娘は子宮筋腫を患い、その夢は潰えた。

ホルモンバランスが乱れ、彼女は灰音にすこし八つ当たりしてみた。
非常にスカッとした。

灰音の父親の前では灰音をたいそう可愛がり、いなくなればころりと態度を変え灰音を苛めていくこのオンとオフの切り替えは彼女にとって快感だったらしい。

灰音は大人しい性質であり、大人に対してものを言うなんて畏れ多くてできないというような思考傾向の持ち主だったので成金の娘の虐待を黙って受け入れた。抵抗したところでどうにかなるのか?という話だ、愛する父親が路頭に迷う姿なんて心が痛む。二度と彼女はそんな思いをしたくなかった。
 
成金の娘の対応を見て育った彼女の連れ子たちは灰音を「見下してもよい存在」と見做し、彼女を八つ当たりの格好の的とした。野郎二人は灰音に性的暴力を行い、その妹はそれを見てにやにやして自身のリビドーを癒した。
灰音にとって最悪なことに、父親が心臓の病で一瞬にして亡くなった。
彼女が12歳のころのことだった。

そのころから虐待はエスカレートしていった。
食事は成金一家の残飯をいただければラッキーな方で、いつも何も食べていなかった。家事全般をこなしていながら、ずっと何かにつけてけなされ続けた。

暴力は日常茶飯事で、自分が何かしら怪我をすれば家族が喜ぶことを灰音は心得ていて、吉本の芸人もびっくりするくらい器用に、絶妙に、服に隠れた部分を傷つけていった。

それでいながら、近所の人には「継母は良い人」と言い続けた。
 
成金長男と次男は夜毎に灰音を自分たちの部屋に連れていき、アダルトビデオを見せ、自慰を強要した。灰音はいつの間にかそういうことに聡くなっていた。逆に他のことにはとことん馬鹿なふりをした。そうすることによって生きてきた。
灰音のどす黒い影を暴いたのは夫である央治との出会いがきっかけだ。

彼は中学で教育実習をしていた。彼は灰音に一目惚れをした。何気なく灰音の話を職員室で聞いて異変を察知した。

誰もが灰音の影の原因を知っていた。尚且つ、彼女の不幸を待ち望んでいた。
 
彼女は少し知恵が遅れていると診断され、特別支援学級に入っていた。そのことが苛め心を非常にくすぐるらしく、学年の生徒じゅうから常に誹謗中傷を受けた。

彼らは自分たちの攻撃性の中核を少しでも意識したことがあっただろうか。意識していたならばこんなに馬鹿げたことはないことがわかるはずだが。

知能の遅れた美少女は大人の男にとってこの上なく心くすぐるものであるようで、正義感のある女性教師が幾度か挙兵したものの彼女は変わり者だと扱われた。そして灰音の不幸の力が強すぎることに、そういった者は転勤した。
しかし城野央治は灰音の不幸のスパイラルに屈しなかった。
 
彼は、大学卒業後に警察になった。灰音の家を家庭調査員から聞き出し、巨悪の根源の尻尾を掴もうとした。結局は灰音の義理の兄弟たちが流したポルノ動画によって成金一家の化けの皮が剥がれた。

気がついたら身寄りが訳分からなくなっていた灰音を一時的に央治が引き取ることとなり、央治は彼女をあたたかく迎え入れた。

実のところ、央治は灰音の父親によく似ていたので灰音は央治に忠誠心のようなものを抱いていた。彼はそれを愛情とか恋心だとかと勘違いして、二人はそれからも一緒に暮らすこととなった。身の上話は以上だ。
話がとても長くなってしまったせいなのか、灰音は肉じゃがを焦がしてしまった。

灰音はうすうす気づいていたが、央治との暮らしに窮屈感を抱いていた。
まず央治の家はとんでもなく家柄がよく、裕福だった。貧しい家系と貧しい家系のサラブレッドである灰音は央治の前でごはん一粒食べることですらただならぬ緊張感を覚え、恥ずかしいことに慢性の便秘を抱えることとなった。

央治が帰宅する。焦げた肉じゃがを口に入れるなり「美味しいよ」と嘘吐く。

灰音は否定語に馴れているせいなのか、否定的な意味のものしか信じることができない。
その点成金一家は正直だった。

二人は風呂に入り、寝具に身を沈める。
愛おしそうに灰音を見つめているつもりの央治。
その眼の奥に潜むきったない欲望と立派な陰茎だけ灰音は気に入っている。

どんなに名前とか愛しているとか囁かれていても何とも思わない。正直その立派な陰茎でもうちょっと奥まで突いてほしい。さらに言うなら体位はバックより正常位の方が良い。
だけど何も言わない。相手だけ果てても満たされている顔をする。

それが現在の幸せの秘訣だった。
 
誰もが羨む、幸せの絶頂に灰音は今いるはずなのだが彼女は幸せについて最近よく考える。
人並みに知恵を獲得した彼女の頭にこんな疑問が浮かぶ。

自分の価値とは何か。

父親譲りの美貌だろうか。
成人を迎えた彼女が思うに、の話だが美少女ではなくなってきていることから、それはもうすでに崩れてきている。

賢い彼女はようく知っていた。朽ちていく花ほど惨めなものはない。
ならば自分はこれからどうするべきか考えた。

そこでよくこの壁にぶつかるのだが、央治は邪魔で仕方がない。



ある日央治は就寝前、灰音にこう嘯いた。

「子どもが欲しい」

それから灰音の心の中で小爆発が毎日連発していった。最後に焼け野原みたいに荒んでいってわざわざウェッジウッドで揃えてきた食器群を故意に割るようになった。自身の精神状態を知って彼女は自分が憤慨しているのだなー、と気づいた。

子ども。

彼女の正直な気持ちとしてはそんな存在に分けてあげる慈悲の心は一滴もない。そこのところ見抜けない央治に嫌気がさしてきている。
だいいち、結婚というより出会ってから1年も満たない。そんな中子どもなんて背負うにはリスクが高すぎる。一生央治と向き合わざるを得ない。だけど彼女は央治の精液を子宮で受け止めることを最近始めた。彼女は計画性が欠乏していて刹那の悦楽が大好物である。何より、所謂〝中出し〟をする際に央治の、快楽の大波の中覚悟を決めた表情が灰音にとっては堪らなく好ましかった。

しかし我に返るとすぐに通販で大量に買い溜めしたピルを飲んで妊娠を阻止した。そんな日々を送っていたらピルの副作用で相当参り、ついにはぼうっとして公園の道端で羽を休めている蝶々をぐりぐりと踏みつぶしていた。

私はこんな女だ。
もし妊娠に国家試験があるとすれば、間違いなく不合格であろう。
そもそも家庭環境がよくない。あの親ありてこの私あり、だ。あんなにいい家庭に嫁いでしまったなら、それはもう素晴らしい子どもを育てなければならないだろう。素晴らしい子ってなんだ。品行方正な子だろうか。品行の大事さがよくわからない。でもこの家では大事なんだろう。

灰音は真昼間の公園の中一人で泣きそうになっていた。
央治のことを本当に好きなのかもわからない。子どもを産む資格も備わっていない。なのに央治は妊娠を望んでいる。そういえば3人は欲しいとか言っていた。3人も。3人も生んでしまったら、せっかくの淡いピンクの小さな乳首が伸びきってしまう。腹には妊娠線ができてしまう。だけど中出しは気持ちがいいし、向こうは止める気がないし……。頭がどんどんくらくらする……。

そんな時、黄色いボールが灰音の頭を直撃した。

「うっ」
「あっ、すみませーん」

見れば、申し訳なさそうな顔をしている女と、ぼけっとしているちいさな男の子がいた。

「すみません、お怪我なかったですか」

女は男の子の親らしく男の子の代わりに謝っていると思われる。灰音の顔を見るなり吃驚している。それもそうだ大きい女の子がえんえんと泣いているのだ。

「もしよかったら、うちで話を聞きましょうか」

謝る女は良い人だった。ちなみに名前は小夏さんと言った。マンションに入ったらカフェダックワーズとミルクティーを振る舞ってくれた。相変わらず男の子はぼんやりとしていた。灰音はその子の名前を教えてもらったがしばらくしたら忘れてしまった。

灰音は赤裸々に中出しが気持ちいいからやめられない、みたいな下世話な話をする勇気はなかった。だけどここまでしてくれたのだから何か話をしないわけにはいかず、「妊娠に悩んでいる」とだけ漏らした。そうすると小夏は

「もしかして、妊活されているんですか?」

と訊いた。馬鹿正直に灰音は

「え……いやとくには」

と答えてしまった。
そうすると小夏は不思議そうな顔をして、また尋ねた。

「妊娠に悩んでいるって、もしかして産みたくない感じですか」
「まぁ……そうですね」
「お仕事とかされているんですか?」
「いえ。専業主婦のようなもので」
「毎日退屈じゃないですか?」
「やることがいっぱいあるので……」
「そっか。なるほど。城野さん家、豪邸ですもんね」

現在まで、灰音は小夏に自己紹介をしていなかった。しかし小夏は灰音のことを知っていたことにちょっと灰音は戦慄した。灰音は近所付き合いを浅―く行ってきた。その感触として、この豪邸は目立つということを知っていたし、自分が白い目で見られていることもうすうす気づいていた。小夏もその一人なのだろうか。

「好きな人の子どもだったら、産みたくないですか?」

漠然としていたけど一番質問されたくない疑問が今明確になって聞こえてしまった。好きな人じゃないかもしれないなんて口が裂けても言えない。さっさとうまく切り上げてお茶だけ飲んで帰ろう、と灰音は思った。そうですねー、と言ってみた。明らかに心無い声だった。

「子どもなんて、産んでしまえばどうにでもなりますよ」
「本当にそうですか?」
「産みたくなった時に産めばいいんです」
「……わかりました」

それから小夏の身の上話を延々と聞かされた灰音は小夏のことがいつの間にか好きになっていた。来週の今頃また会う約束をして家に帰ると、央治が先にいた。心配していたようだ。

「灰音、実はピル飲んでるだろ?」
「えっな、なんで」
「ごめん、部屋の中見た。それに、最近体調悪いし」

部屋を見られたことに対して相当灰音は動揺した。掃除機をしばらくかけていない地面にはものが落ちていなかっただろうかだとか、片付けを忘れていただとかを思い出すと頭から湯気が出そうだったが、今はそんなことを考えている暇ではない。子どもが欲しくないことがバレてしまった。なんでピルを飲んでいたかなんて、子どもが欲しくない理由なんて、墓場まで持っていくつもりだった。喧嘩するのだろうか。そんなことは避けて通りたかったが。灰音は意を決した。その瞬間だった。

「無理させてごめん」

央治は灰音を抱き締めた。

「もうちょっと、ふたりでいような」
「……はい」

灰音が返事をすると、央治は優しい方のキスをした。灰音は央治のことが今だけは好きだと確信した。すると

「どうりで。元気がないと思った。最近料理の味もおかしかったし部屋の隅には埃たまってるし。明日からちゃんとしてね」

結局は叱るのね。心の中灰音は前言撤回をした。
翌日。ゴミを捨てに収集所の付近に行った灰音はいきなり近所のおばさんに話しかけられた。

「ねぇ。城野さんって、いわゆるセックスレスなの?」
「へっ?なんでですか」
「あの家の奥さんが話してくれたわよ」

おばさんの指す方には、あのマンションがあった。ダックワーズの家だった。