文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

聖少女を読んだ

ふだん本を読まない。なぜなら読めないからだ。読もうとはしている。だけど読むときにどこまで読まねばならないのかが差し迫っていないと読めないし、そういうことで今の新鮮さを読まないと意味がなさそうな本は読んでいる。実は面白そうな古本ばかり買ってそのままにしている。そのままにしていたらいつ読むかがわからない。

やっぱり漫然と読んでは駄目なんだ。今をどう読むかを考える時に取り入れるものでなければ。だけど、今を変える呪文を探すときにしか本を読まない人もいるのだろう。

聖少女を読んだけど、近親相姦をお父さんとやったのはあなたを捉えるための嘘よ、みたいな。

むかし、ファザコンが流行ってたころ、もしかして……と思い母親に「わたしってお父さんと結婚したいとか言ってた?」って聞いたら「そらもう」と言われたのがショックだった。父親と同列にされて情けないということではなく、今とはなんの関係ない情念に一杯食わされてたわごとを言ってたのがなんとも情けない。

なんてったって、なぜわたしが父親が好きか。わたしを食わないからだ。わたしは昔父親母親の縁の人に片っ端から抱きかかえられ「かわいいね~」と言われまくっていたが、男だともれなく泣いていた。じいちゃんですら泣いていた。父親だけは、安心して抱きかかえられていた。

桜庭一樹の「私の男」はめちゃくちゃうらやましくて、でもこの父親であると全然夢の話になるな……と思っていた。めちゃくちゃ醤油臭い、九州男児サラブレッドなので、「私の男」がずいぶんとしゃれているように見えた。

わたしは本来なら文化資本雄大な家にころりと生まれてくるはずだったのかもしれない。それが自然の雄大な家に生まれて、精神的にずいぶんと甘やかされて育ってしまった。本来なら、趣味の悪い旦那に性器を弄られて幼児期を過ごすはずだが、父親になり損ねた男がいつもわたしのパンツの中身の黄色い卵黄を見て野心に薪をくべる。そっちのほうが、令和的にエロいことを考えているのだろう。

聖少女を読んでいると、わりと短期間で練り上げたプロジェクトの話だってことがわかるので、私を読んでいるとなると、あの男の視座は2020年からということと結論付けてしまいそうになるが、思えば、2013年の秋に「君の排泄を僕は見ている」と言っていた。地獄は地続きなんだろう。

人間、欲しいものがある時はローンなどを駆使して嘘をついて欲しいものを獲得する。聖少女はそういう話だ。ここでブログを閉じるまえに示唆を言う。

聖少女のKは姉のLと近親相姦したという話だが、Lのふりした幻影に襲われていて、それからLをエロい目で見ていると、Lがそれを悟って、距離を置いたという見立てはどうか。いや絶対そうだろ。

わたしの幻影も、兄のふり、痴漢のふり、好きだった人のふり、クラスメイトのふり、なんでも自由自在だ。というわけで、わたしはKより熟練している。聖少女も、期待外れというわけだ。(父親との情事みたいなパートはしびれるくらい面白かった)