文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

愛とはすでに重たい

我が家はたらこ唇のサラブレッドが集っている。唇がぶ厚ければぶ厚いほど、多分愛について思想があるんだと思う。上唇は自分の行動を、下唇は相手の振る舞いを。

わたしは悲しいほどくちぱっちに似ている。よく考えたら兄もくちぱっちに似ているので、悲しみは私だけのものではないことがわかる。

まあまあな贈答品を貰うことがある。ヒッ……と思う。これに応える気概なんてないぜと思う。引き出しを開けたらモンダミンがあり、家族が実はこれは買ってないものなのだと言う。昔からこういうことがあり、わけのわからないソース焼きそばがあったが食べてしまった。こういうのを主治医に言うと立件して逮捕・起訴になるんだろうか。

でもまあまあな贈答品をもらう。桜庭一樹の新刊も思っていたのとは違うけどわたしが欲しかったものなんだろうと思う。あれを発売日に2時間で読んだのはもったいない気がする。280ページを2時間程度で読めるんだと思った。ところどころ読み飛ばしはある。楽譜で言うところの説明とか繰り返しにあたるものは読み飛ばしたが、そういう細部にも意匠があったのだろうかと思うとたぶんそうなんだと思う。占いというのは全部話をメモして初めて占い師を信頼していると言える。

桜庭一樹を読むのがだんだん怖くなってきている。今回なぜ5月31日で読むのにこだわったかというと、同じ日に九州で解禁されたランジャタイのインタビューを読んでると、この勢いというのは本当にかすかな希望でしか作られていないんだと実感した。この一縷の野心を今日を逃さずに読んでしまっては二度と鮮度がよみがえらないと思った。そして桜庭一樹を読んだ。久しぶりに目の奥がくたくたになって、それなのにそれからH&Mに行って服を探した。ニルヴァーナのTシャツはなかった。

昔タイムラインで「学者は文字を25時間読め」という流布をみたが、1時間100ページがわたしのペースなんだが、多分本という魔術に触れたら1時間くらい魔界に飲み込まれて消えていくのだろう。本は読めば読むほどわかることがある。しかし私はなるだけ頑張りたくないと思っている。本は読めば読むほど馬鹿にされてしまう実感がある。読者の信じたいという欲望を矯めるふりして自分が王様になるために読者を欺くのである。

わたしは人差し指の根元がとてもぷりっとしていて、それは野心の鮮度を表すのだと手相では言う。大学を作ろうかなと思っている。最近ムサビを批判したけど、寺山修司自体は母性のある人なんだろう。松永天馬にネカマして質問したら返事がきて「寺山修司ってこわいんですか?」と訊いたら「怖いというよりは今だったら逮捕されているか業界抹殺されている人だと思いますよ」と言っていたので、その日から私の磁場が狂っている。

正直な話、ムサビの質を考えればさもありなん……と思う。テラシューにならないためには、っていうかテラシューになるんだったら、売女になることに悦楽を極めるのか……と思うが、松永天馬はそれをよく体現していると思う。しかしながら、昔にも申し上げたように、売女になりそうでならなかった実績がある。私はそういう道を踏まないし、そういう人たちのことを、神様のような視座で篩にかけるふりして、全員見下すようなことをしますからねと今の時点ではっきり申し上げていきたい。

売女の悦楽って、たかがしれてるんですよ。人生、処女で終わる人がたくさんいて、その人のエクスタシーについて考えたことがありますか。イカロスになって天を泳ぎっぱなし、でも朝になったら毎日家に帰ってきて、自分が報われるなんてひとつも考えていない人の人生がせめてあなたにわかったなら、どんなに世の中よくなっていくことでしょうね