文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

インスタントブログ

とある友達の日記で

「わかってほしいという甘え、わかりたいという欲望、わかられたくないという矜持、わかることはできないという諦念」

と真剣に悩んでいるのがわかるんですが、わたしは

「わかりたくないという甘え、わかってほしいという欲望、わかられないという矜持、だいたいわかったという諦念」

と言えるなあ。と思いました。見てないだろうけど。

つまり、真剣に悩んでいる人と、横着に悩んでいる人が隣り合うことで、世の中という映画を一緒に観ることができるんですね。

関係ないですけど、最近いろんな人に喧嘩をふっかけては「その人を見るピントがすこしずれていた」と自覚するようになりました。喧嘩はふっかけてみるもんですね。ふっかけられたら大きな心で構えなければなりませんが。

松永天馬のnoteを見ることができるんですけど、松永天馬はあんなに寺山修司が好きなのに「日の丸」をまだ見てないことがわかりました。そして、「私はサブカルが嫌いだ」という記事を最前に固定しているのですが、2023年の3月半ばになって、あれは愛国心なんだなと思うようになりました。わたしの嫌いなタイプの愛国心だなと思いました。

多分、松永天馬はこの期に及んでクリームソーダをエモいと読んでいる若者に涙が出るんじゃないかと思います。あなたは昭和回顧をエモいと読んで愛でますか?私は愛でません。昭和よりゼロ年代を愛しています。昭和はナショナルの時代で、物持ちがいい印象があります。そういえば文豪がいた最後の時代だった気がします。平成という平らな時代を経て文豪は消滅しました。

サブカルと日本を並列で語るには無理があるというのを安倍晋三は教えてくれました。断絶というモチーフは無理矢理改善するもんではなく、認知するためのものだったんじゃないでしょうか。文化人はいつも貧しく、なのにどんどん労働者は金持ちになっていくだけの話じゃないですか。「グッドバイ、バッドマガジンズ」で「今の時代、文化、ないから」と言っていますが、文化人の言い訳でしょう。日本人には三種類いて、美少女か、家畜か、かしこい青年がいて、美少女は国を挙げて隠し守るとして、かしこい青年が先陣を切って世界に目潰ししていくうちに、周りを見渡せば日本って几帳面で信頼できる水準であることがわかって、青年が肩で風を切るようになったのはいいけど、その中で家畜人はずっと家畜人なんですよ。それがいいという外国人もいるけど、それでも広告だらけの日本都市はダサいなって思われてるんでしょ。

関係ないけど、私のパーソナリティは桜庭一樹作品で言えば田中紗沙羅に分類されるんだろうなと思うと憂鬱になっていた。改めて「脂肪遊戯」を読むと、紗沙羅は普通の女の子であることがわかった。普通の人にとっての異常ほど輝いているものはないんだなと思った。異常であることが普通のわたしは、統合失調症のわたしは、紗沙羅ではないんだろう。わたしは桜庭一樹作品で言えば一番近い人物は高山真由くらいだと思う。そう思いなおすと安心してきた。紗沙羅は本当は家畜人素質があったのかもしれないけど、脂肪遊戯を経ることでその牙が矯められてしまった、という見立てはどうだろうか。トレイシー・ローズは紗沙羅の亜種なのではないか。

家畜人が活き活きするのって社会の闇を啜ってる時なんですよね。その仕組みどうにかならないかなと考えていくうちに、わたしは、絶望を捉える時どうにかしてその所見を希望的観測に替えられないかと思っているんですけど。桜庭一樹はキャリア的に替えられない作風だな~と思いました。私がゼロ年代が好きなのは、絶対桜庭一樹のおかげです。

平成はぶっちゃけた話美少女が家畜人と結婚する時代だったと思います。令和になって、美少女は青年と結婚するんですかね。私の父親がセクハラの類を一切しなかったことを考えると、結婚って本当につらい出来事だなと思います。私の父親に即した伴侶を手に入れることはどんなに難しいことでしょう。