文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

手紙を書く宇宙元旦の一日

今日は宇宙元旦(春分の日)らしいが、そんな日に、いろんな人にファンレターを書いた。書いていくうちに、私は書くことが好きなんだな……と思った。どんなにいつもつまらないと思っている今日であっても、人に手紙を書くだけでいい日だなと思えるのなら、それはすごい才能なんじゃないのか、と純粋に思った。この人に!と目指した文章が、この人めがけて一生懸命走り、やがてゴールに辿り着く。普通走ることにゴールはなく、むやみに空を切るような誤魔化し誤魔化しの返事しかできないのに、私は、空にピントを合わせる才能があり、それがあればどの人の心も描写できる、ってのは言い過ぎだけど、その人に「ああ自分のことを描いてくれているんだな」とわからせるような技術は持てているのが、書いてて思う。明日は誰に手紙を書こうか、なんていう、魂胆を目的にするようなことは私はやらないけど、手紙は書けるうちに書いておこうと思った。不二家で言うペコちゃんのほっぺである。大したものと思ってないけど、買えばよろこばれる商品。

インターネットがつまらないのは、誰に向けてでもない文章を垂れ流すことにある。この人に届けたいという気持ちは、あるんだろうけど、検閲とか推敲で対象を拡大することにダサさがある。かといって、一人悪口を言いたい人にむかって、特定できるような悪口を言うと、その人の正当性があらわになった時、しっぺ返しを食らう。まあそういうの覚悟で悪口は言うべきだが、っていうか私はインターネットで悪口しか言いたいことがないのだろうか。

一生懸命言葉にしている時に、予測変換の向こう側から、その言葉を全部自分にあてはめたい思惑があるのを感じる。大体無視している。なぜなら、本気で取り組んでいる時にそのレーザービームはやってこない。本当に真剣に手紙を書いている時、その版権は俺によこせという視線はない。今日は大森靖子のMV公募の動画を見たが、かわいい女の子を撮っただけの映画なんて、テン年代の向こう側に通用するわけないのを別垢で説いていた時に「俺は?俺は?」みたいな視線があったけど、浜崎容子は別にかわいくもなんともないので、ああいった障害者を社会登用しているだけすごいなと思います。それだけです。大森靖子のMV公募は、こうでもしないとアマチュアの撮った動画を検索して観る術がないので、ありがたいはありがたいけど、アーバンギャルドのアー番のパクりだよな……っていうか大森靖子は大体誰かのパクりしかしてないな……と思いましたが、まあそれを言うならアーバンギャルドが一番誰かのパクりでしかないでしょう。

インターネットは本当につまらない。誰かへでも誰でもない宛へ書く手紙のつまらなさったらない。それをすり抜ける術は悪口しかない。私は好きな人がたくさんいて、その人ひとりひとりに手紙を書いてきたので、技術が上がったと思います。インターネットにおける手紙の技術とは、まあタロットをする際に鑑定相手が世界に据えて読むという技術だと思うんですけど、ここまで次元を上げると占える人はなかなかいなくなる。まあタロットならそうですけど、ツイッターではどうでしょう。自分の亀頭の向きに従って、放物線描くように小便を垂らすツイートが山積しています。それで自分は収益化して、なにものかになっているかのような錯覚を味わっています。そういう人が、タロットへ市場を変更した場合、いかに自分が無力かを知ることでしょう。タロットは、全力で目の前の人にすべてのチャクラを開きます。すべてを読み、そして読み外すこともやります。ツイッターでいい人ぶってる人は、本当のことしか言いません。それが浅はかってものなのです。読み外す、これがいかに重要なことか。

人を占いたいな、と思いつつも実現できず、今日も占い師に占ってもらったな、と思いながら日々過ぎていくもんなんですが、人を占うというのは、きっとその人の少ない情報下でいかに手紙を書くか、に過ぎないと思います。手紙を書くというのは、オリジナリティをいかに味方につけるかなので、オンリーワンの出来になると思います。そういった読みをしていきたいし、出会っていきたいとまでは思わず、今ある人の縁を大事にしたいと思ってますけど、そういうスタンスが私を占い師にしないのかもしれません。占い師というのは人を選べないですから。

今日は本当に素晴らしかったなと思います。でも明日はそうじゃなくていいです。明日がそうじゃないから今日は素晴らしかったのだと思うし、今日の素晴らしさをさらに報うような明後日が来たほうがなんか怖いです。

双極性障害の人にだけ因果応報が活用されるわけでもないと思いますが、それなりに手ごたえがあった日だけ空振りの日もあるってわけです。その繰り返しで生きていくことを心得たなら、双極性障害という診断を手放す日も来るはずでしょう。今日はやたら味の濃い一日だったな、という日が続いても、凪が止むと、味の濃さが恋しくなる日が来るんでしょう。双極性障害はその敏感な感覚に対する欲求が報われにくい人種だと思いますが、そういう差異もどうでもよくなる日が来ます。何が食べたい、でもそれは食べれない、憤怒、みたいな日々が続くでしょうけど、それすらどうでもよくなり、ものを食えているだけましか、みたいな、さらに一つ上の絶望が待っています。人は絶望を味わうことがないと、今までいかに恵まれていたのかを自覚できないわけですね。自分がどのような位置に立っているのか、絶望の淵で自覚するのか、白昼夢のまどろみの中で心得るのか、人それぞれです。私は白昼夢で森羅万象を心得ました。