文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

秋ってなんか悲しいのはなんで

ランジャタイのANNXが24時にあるのでそれまで6時間待機している。待てない。秋になったなというのはお盆前から思ってたけど、9月になったらこれはもう秋と呼んでもいいので、秋になったなと思うけど、ツイッターで人の悪口ばっかり言ってると、悲しくなってくる。これはわたしが善人だからとかじゃなくて、エネルギーの話だ。わたしが悪口を言っている人は悪口を言われることに関して実績があるので、わたしが悪口を言ったところでみんな黙っちゃうだけで、その時にみんなの心に何が走ってるかというと、やはり悲しみなんだと思う。誰かが言わないと終わりなき日常が終わらないから、わたしなんかは率先して言おうと思っているけど、まさか逮捕されるまで悪いと思わないし、まさかわたしにサイキックアタックをするまでに魂がからっぽだと思わないよ。

最近「終わりなき日常を生きろ」を読んだ。書いてないけど、オウムの思想は海外輸入雑貨品の失敗だと思った。さまよえる良心が危ない、と書いてあったが、まあ要するにその時その時で真面目であると駄目なんだろうと思った。3章はひたすらサブカルチャーについて語ってくるので読み飛ばして、書いてはないけど、この時代はまだ宮台真司はこの終わりなき日常の絶望は世界、特にアメリカが舵を切って運営している世界が苦情受取先にならないといけないと思っているみたいだった。しかし、「嗤う日本のナショナリズム」であるようにのちに転向して、今のようなリツイートの嵐、リプ応戦の嵐、みたいな生活を送っているんだろうけど、去年刺された。きっと時事キャッチはもう行われないのだろう。わたしはめりぴょんの後釜になるつもりでいた。

宮台真司は「あなたたちを全員まとめて救い切る覚悟ができた」と言っていたのが印象的だった。まあ宮台真司は対症療法でしかないから、たとえばわたしを救うとしたら、解釈の変更(これも「終わりなき日常を生きろ」で言及していた。仏教由来らしい)を薦めてくるか、それか多分わたしなんかは逆に犯罪をしろと言われるかもしれない。多分わたしが何にでも適応できるのか実験してみたいと思うかもしれない。本当にそう言われたらがっかりするので、私は宮台真司には会わないことにする。ツイッターは購読するとしても。

ツイッターのミュートを結構な量してたけど、これはやっぱり失礼だよなと思い、ミュートを解除すると、やっぱりミュートしとくべきだと言う人もいるし、今まで偏見でしか見てなかったなという詩人もいて、でもやっぱりいつも通りがいいなと思った。いつもおなじみの顔ぶれのツイートがいつも通りに出てこないとがっかりするし。9月9日の、わたしは編集者に会う機会があって、勝負の日の午前中に、いつもの顔ぶれが一瞬空リプラリーのようにタイムラインに現れたのは爽快だった。ああいう一瞬一瞬を大事にしていきたい。

わたしにサイキックアタックをしてきた人が、今もなお「言葉」に執着しているのが面白くて、たとえばインスタグラムのプロフィール欄に「writing, poem, fortune telling」と書いてあったけど(一部脚色しました)、本当に言葉を大事にする人だったら、サイキックアタックをしないはずですけどね? わたしみたいにツイッターしてろよと思いましたけどね。結局最終手段が「言葉」じゃなくて「サイキックアタック」なら、宗教家になれよと思いました。宗教家です。占い師とは違います。宗教家は傷のなめ合いをする中で一番イニシアチブをとれる人です。占い師はヒーラーです。

批評家にもなれないだろうし(学がないしもう西南学院大学って言っちゃってる)文士にはなれないし、何したらいいんですかね?を9月9日に会った人に問えばいいんだと思った。本を出すことが必ずしもゴールではないという見立てを大事にするべきなのかはわからないけど、お金がほしいし、肩書をいくらなんでもそろそろつけたほうがいいと思う。肩書がついたら、仕事がくるだろうし、歯痒い。わたしだったらもうちょっと面白くできるのに。