文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

満少女

満少女になりたい。

とある詩誌を文学フリマで買って、少女についてのエッセイがあったので、少女というジャンルでこの秋に何か成し遂げたいな私もと思って書いている。

少女というジャンルは寺山修司が少女が好きすぎておじさんが少女を書くというジャンルが確立したが、わたしは寺山修司と違って少女を現役でやっているので、そこらへん勝てるというチートがある。

少女に関して、青年に関して、思うところは、青春であり、青春は必ずしも「恋愛」がそこに存在しているわけではない。だけど、わたしが少女たる由縁は、大恋愛ほど失恋するというプログラミングが心のなかにまだしこりがある。っていうかカウンセラーに施された気もする。だから、元彼と付き合ったりしたのだが、自分は恋愛をすれば自由になる、このわけわからん性欲から解き放たれる、というのがあったけど、まあどうでしょう。業って恋愛で片付くものでもないですよね。

男性作家がこれみよがしに少女を描くのは寺山修司になりたいからだと思う。でもみんななれない。この記事で描きたいのは少女を解き明かすというよりは恋愛を統計化しようとしているところがある。

少女は、恋愛を恐れている。少女に課せられているのは、恋愛である。少女に誑かされたと主張する変な大人は少女と恋愛を結ぼうとする。それをいなしていくのがいつのまにかそれを恋愛と呼んでしまう人もいるんだろうと思う。少女が女になる前に、どの少女でもいいから俺の精液を精神に混ぜ込もうとする人がいる。そういうのは、痴漢に「痴漢するなら死刑です」と言えないように、そういう変な人を片っ端から殺してしまったら、世界は成り立たないという現実がある。

女の人が少女の頃に自分を守るものはなにかと言ったら、やっぱり文化的にこだわりを持つことだと思う。こだわりを持つことで「これは恋愛じゃない」というのがわかる。世の中の汚い男性というのは、結局女性にマリリンモンローを投影しているのではないかと思うこともある。マリリンモンローは発達障害という説があるが、要は少女時代になんの性教育も施されなかったからあんなに奔放になっているのだろう。トレイシーローズと間違えてないだろうか。

少女というのは、寺山が見出してから行動原理が名付けられるだけであり、少女なんてものは、自我がない。自我がないから、プライドがないから、こだわりがないから、なんでも人の言うことを聴いてしまうのだろう。まあ女としての値打ちというものがあるんだとすれば、いかに少女時代に変な事をされて、それを受け入れてしなやかさを手に入れるところにあるんだと思うが、上原さくらが「ちょっと手が使えないから僕のチンチンにリンスを塗りたくってくれ」と言って、塗りたくってたら異変に気付くみたいな大事件を経て売春が流行った時代にバラエティー番組に引っ張りだこだったんだから、まあ強姦されても強く生きるしかない。とはいえわたしがもし明日強姦に遭うのなら、全力で抵抗するが。

女として生きることを最初から選んだ人は頭が良くて、誰にもわたしの恋愛という甘美な蜜を飲ませる訳にはいかないと思っているんだろうけど、そういう人って往々にして水商売に行き、恋愛ごっこをしていたつもりが恋愛にされてしまったことがたくさんあるんだろうし、それも銀座になれば一流を念頭に置くため、邪念がなくなってしまうだろうが、中洲くらいだと邪念もちの客はいるだろう。邪念を打ち砕くには自分がアビスにならないといけないが(それが菊地成孔で言うところの神社にいるおばちゃんだっけな)まあそんなことしなくても、嫌ですとか言えばいいけど、嫌ですと言わないなにかも存在するわけで。

まあわたしが少女だとすれば、満少女だなと思ってこの記事を書いた。ツイッターで投票なんか設けると「気の狂ったお嬢ちゃん」と思われているらしく、お嬢ちゃんであるという自負があるからには、まだ少女であるということなんだろうけど、30歳にもうすぐなるので、満少女ってとこだろう。30歳になってからは女性性を獲得しないといけない。

女になるということは、どういうことか。ふりだしに戻るが、ひと恋愛を越すと女になると思うのだが、恋愛しているのかと言われると、2019-2022年はやってた、ということになる。今はやってないのか。今は、出がらしというわけで。恋愛していたのに、いつまでも気の狂った子供部屋お嬢ちゃんのままである。まだ特に危機感はないけど、親は30歳になるまでに家を出ていってほしいと言う。

今となってはわたしの育てた薔薇に群がる害虫はいなくなったし。思う存分薔薇をいかようにも育て上げる自由さを28歳で獲得している。あと2年。何を剪定し、何を咲かせていくか。