文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

なぜ小谷野敦は痰が絡むのか

小谷野敦「蛍日和」を読んだ。あまり感想が浮かばないタイプのしっとりした文章だった。ほんとタバコを吸ってるような文章だ。タバコを吸わないと邪念が浮かんでは消える。わたしはタバコが吸えないが、タバコというのは何が正解かを見極める感性を磨くために存在した嗜好品だと思う。

幻肢痛」では禁煙しようとすると痰がからむ描写が続く。それくらいしか記憶にない。あとはポリープの描写が「蛍日和」より丁寧なのがあるが、関心は痰にある。

ぼんやりと思うことは、小谷野敦がタバコを吸うというこころみが始まった時、いかにたくさんの肉体内の細胞が結束して小谷野敦を守ってきたかについて連想が始まった。小谷野敦は精神科の薬も飲んでいるので、それがいつごろから始まったのかはわからないが、まあまあ古いジャンキーではあるけど、タバコよりは遅いとみた。だから断定はできないけど、小谷野敦がタバコを吸う時、たくさんの細胞というか体内の意志が結託して、いかにうまいタバコを吸わせにかかるかをやってきたのも数十年、小谷野敦が禁煙をこころみるとなると、その細胞たちの意志も解散を命じられることになるのだろう。解散……!?したくないですぜおやじさん!!!とばかりに、痰を絡ませにかかるのだろう。タバコを吸ってよおやじさん。死ぬとか死なないとかはいつだっていいでしょう、これが身体の意志というものなのだろう。だけど小谷野敦はそういう意志に気づかずに禁煙してバッドエンドになるのだろう。

でも禁煙しないと馬鹿を見る世界になるのだろう。世界は。わたしはいかに戦争をやって真実を見つけるかに懸けるつもりですけど、これからの世界は嘘大歓迎なんだと思います。わたしが下痢をして、なんどもトイレに行って、でも原因はわからない、それでいいのだ、という世界がやってくると思います。その中でも、小谷野敦の体の意志は、タバコを吸えと言うのでしょう。