文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

多様性とか個性の尊重とか言うけどさ

小説家を目指すというと、十中八九、賞に出したら?と言われる。でも考えてほしいのは、賞を獲るためには賞を獲った人の作品を汲んで傾向と対策を練って投稿しろと言う。でもそれって面白いんですか?小説は書いて救われるためにあるのに、自分を救うかどうかも怪しい編集者の言いなりに賞も取ってないうちから成り下がるなんて、みっともないと思う。そして、賞に出せってアドバイスした人は反省してほしいんですけど、そういう過程を踏まえて同じ言葉が言えますか?ということだ。小説家を目指している、と言う人に一番言うべき言葉は「その作品見せて!」である。それ以外ない。

多様性とか個性の尊重とか言いますやろ。それを引き出す仕事がカウンセラーだったりまあ福祉だったりするんですけど、個性を褒めておいて、社会進出になるときに叩き殺す仕事しかしてないんだなと思うと、この人なんのために生きてるんだろと思う。自分は贅沢しておいて、自己実現できないギフテッドには辛い箴言を放って悦に浸って、よく自己嫌悪に陥りませんでしたね今までと思う。これは、大学時代からお世話になったカウンセラーの話である。

なんていうか、これが西南学院大学の本質だと思う。京都大学が引き合いに出すのはちょっとおこがましいけど、京都大学に関してはエリートなのに関西大学卒より獲得した財産は品質が劣る、などがあげられるけど、西南学院大学に関しては「育ちはいいけど基本才能が足りない」みたいなところがあると思う。そういう大学を卒業しているのだから、気を引き締めていかないといけないと思う。私は西南学院大学の中でもアウトローなほうだったけど、やっぱり求められているスキルに対して自分の才能が足りずにやきもきしてしまう質なんだろうと思う。私のブログ読んでる西南学院大学卒の人、がんばりましょう。やっぱり早稲田行きたかったな~

12月に入ってブログの更新頻度が高いのは、イライラしているからだと思います。やっぱり文学の根源は怒りなんだな。多様性!とか個性の尊重!とか言ってるけど、個の力が社会に勝つとしても、その個は社会にそもそも則した意志であり、それか個の意志はやがてまた社会の流れに収束していくな、と五ノ井里奈を読んだ感じ思います。わがままって言葉に言い換えたら、すげえやる気なくなってくるでしょ? 現代はわがままをいかに通すかという時代ですよね。そのわがままを誰が担うのかというと、ケアラーだったり、食べ物だったり、消費財だったりするんですよ。

ここで前述のカウンセラーの視点に戻るけど、目の前のかわいこちゃんが悩んでいたら、さんざん甘やかしたいと思うのが人間ってやつなんでしょう。たぶん猿人類の意志。だけどいつかわがままは破綻する。その時になって準備するのは馬鹿のやることなんじゃないかと思うすね。最初から論破していけばよかったんですよ。その切れ目というのも会話の中で人間関係の中で見つけるのは難しい。最初から厳しい審査で人間を見るとしたら、クランケなんて存在しないんでしょう。

つくづく思う。令和ってなんてつまらない時代なんだろう。人の思いやりなんて進化してもたかが知れてる。だったら前時代的のほうがまし。今まで培ってきたノウハウがそこにあるんだもん。でも私の例えば生霊が前時代の産物なんだろうと思う。昔だったら姿を明かさないまま私は貧乏をやっていたのだろう。逆に言えば、生霊が報われないと悟っていたならば私はこんなに苦しむこともなかったのだろう。私がもし順風満帆だったら、いじめっ子になりたかった。いじめていじめて、悪意の切れ味を研ぎたかった。

昨日も占いに行き今日も占いに行き、明日も占いに行く。暴力だ。私のわがままの掃きだめを一回3300円で排出している。