文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

「コルチカムの仮死」感想

かぶちゃんの詩集を貰ってから5年くらい読んでなかった。5年の間に、決別をしたり私は精神病院に入院したりいろいろあったけど、5年前の私は、自分にとってつまらないものを読み進めていく自信がなかった。「つまらない」と一蹴すると語弊があるが、いちおう品質は確かで評判はいいけど私は選び取らないものを買うというか、今でいうところの「エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス」を観るという行為ができなかった。だけど今ならどうもできそうだ、と今日ジャン・コクトーのつまらない映画を見て確信した。今日ならかぶちゃんの詩集が読めそう。

かぶちゃんはかつてブログで「さみしさ」について黙々と掘り下げる作業に没頭し、それを語っていた気がする。要はかぶちゃんの原動力はさみしさなのだろう。そのさみしさというのは、双子というモチーフで描写され、二番目の噺「序曲」ではそのさみしさが月の光になって爆発する。

かぶちゃんというのは生前(私がかぶちゃんにブロックされる前の状態を指す)、ツイッターを追う感じ、ネットで結構友達を作ってるみたいだった。マッチングアプリとか使わずとも、(いや2018年にTinderはあったのか?)ツイッターでコアなクラスタを探し当ててそこで友達を作って、結構オフ会とか行ってた。名古屋とかも行ってたんじゃないかな。私はネットの友達にわざわざ会いたくない。なぜなら、ネット以上にアツい関係を築けないからだ。ツイートにいいねを押すこと以上にアツい物はないと思うし、それで満足しておくべきだろうと思う。でもまあかぶちゃんは友達を一人つくっては一人失い。それを繰り返していくうちに文才が磨かれていたんだと思う。

5つ目の噺「Da Capo」は白鳥の話。主体である語り手は白鳥に憧れていたけど、狼についていくことにした、みたいな世渡りの経緯が童話調に描かれていて、こういうのがもっと読まれるべきなんだろうな、世渡り的に。と思った

白鳥に憧れながらも白鳥の双子になれなかった主体に、私を重ね合わせてもいい。白鳥はかぶちゃんであると。真に読者になるためには自分と物語をリンクさせていくのは手法のひとつだ。そうした時に、かぶちゃんがたくさんの友達と別れたが、そのふるまいを私にもやったとしたら、それで満足か?と思った。私は友達をつくることはしない。なぜならできた時は大切にするけど、つくろうと思ってつくったら、そりゃ破綻するというサイクルを無意識に経験してきたからなのかな。

まあかぶちゃんが誰かにされてきたような仕打ちをわたしにしているんだとしたら、受けて立つわよとかでもいいましょうかね。しないけど。私も福岡詩人界隈を出禁になって、人にやさしくしている余裕がない。

作中でかぶちゃんは自分は恋ができる街娘、愛ができる聖母、空想ができる青年の、どれにもあてはまらないと言っていたのが印象的だったが、じゃあ物の怪として考えてみて、物の怪にできることと言ったらなんだろうかとなった時、ひたすら自分を客観視して道化をやるしかないんだろうなと思った。私はそういう手法をとるとき、必ずと言ってもいいほど自傷癖ならぬ自慰癖でツイートを連発させていくやり口に頼っているのだが、かぶちゃんは性癖に頼らない狭い世界でここまできれいな世界を作り上げていたのがすごいなと思った。そういえば私の友達は精神疾患はいたとしても自傷癖をやらないし多分恋人がいない。

さびしいと思った時、そのさびしさはどうつまんでひろげて見せびらかすのが正解なんだろうと思うじゃん。私はさびしいとかもはや思わなくなった。さびしいと落ちこむより前にありのままをツイートしているから。180人が見てくれるからいいかな~と思っている。さびしいと言うなら、さびしいと言っているのを見てるだけならできそうだ。でもさびしいって実は湿度で、火で炙って焚いたら消えるよ。私にとってその火っていうのは、真理に対する情熱と信じて疑ってないけど、そういうことを言ってたら空リプで鼻でせせら笑われた。お前を焼いたろかと思った。だけど出禁になるってことはそうしない世界線を築いていけってことなのかな。わからん。戦うしかないよね。だって真理を探すのに燃えてるんだもん。ムカつく奴は焼くしかないよね。