文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

寺山修司創作研究会

ノートが広すぎて書ききれない。ノートが広すぎて私の文字はあぶく銭のように増殖していくだろうが、その実何も描いてないことがないようにしないといけない。

すごく好きな先輩と最近会った。その前に携帯忘れて待ち合わせするのにひと悶着あったのは省いておく。先輩と会って話していくと、私の少しつらい近況を話すと、最悪だね!とオーバーラッピングしてくるのが、私としてはアメリカ映画のいわゆるボブっぽいなと思って伝えると、それを他の人は高田純次的だと言っていると聞いた。ボブでも高田純次でもいいけど、そういうノリで、佐久間宣行をダサいとか小林司嫌いとか言えるのがすごく好きで、ああこの人はまだ心に鋭いドスを磨いているんだと思うと本当に本当に文芸部やっててよかったと思う。社会を一切許さない姿勢を私も貫いていかないと……!と襟を正す機会になった。先輩は朝井リョウ村田沙耶香などの不毛地帯を嘆き、さらに西村賢太も迎合したからこそ晩年があったと語り、人格破綻者文学の勃興を望んでいた。私がそれをできるかわからない。もしかしたら先輩自身のその手で旗を揚げるのかもしれないけど、私というのは私のこと面白いと思っている人と話をしてみても、私のツイッターはそこまで支持してないんだろうなと思うことがある。最近フォロワーに友達が自殺したことを伝えたら、だからあなたは不安定なんだ、気を付けてと言われてみても、ぶっちゃけ私のスピリチュアルは敢えてなんですよね。私のツイッターは最近予測変換の垂れ流しを採用しているんですよ。

予測変換の連想をわざわざツイートする意図というのは、私が予測変換に何かしら他者の意志が備わっている気がして、それが松永天馬であるような気がして、こうしてログを取って残しているわけですが。なんていうかフォロワーの心配事は全部予測変換の連想の不気味さに集約される気がします。

ノーベル文学賞を獲るんだったら、こういう不気味さを利用してナンボだと思っています。ノーベル文学賞とか言っても、他人が「もしかしたらこの人を超えられるかも」みたいな期待を提示するじゃないですか。あれほんと役に立つことないですよね。ノーベル文学賞って私から言い出した目標ですけど、つまんねえ目標に成り下がりました。

寺山修司は二番煎じをよくやる人だと思いますが、それでもソース元が虫食いでなくなるのが時代なので、言葉として残るのは寺山修司の言葉なんですよね。田園に死すの最後も、似たような映画が勃発していたとはいえ、なんか寺山修司のものになっているんですよね。でも寺山修司になるつもりないですけどね。私は本を読まないけど寺山修司より思想に長けています。って自分で言うことの悲しさ。寺山修司を読んでつまんないなと思いつつ他に面白いアイデアが浮かぶことがあるし、たまに面白いところもあるので読んでいますが、完全に何から何まで面白いというのは、松永天馬くらいしかいないですね。松永天馬は負け戦をしていない気がします。寺山修司を読んでて、これがつまらないと言える人を探しています。

都市高速を通っていると、造船所が見えて、中学の同級生に造船所で働く人がいて、私の友達をDMでナンパしたらしいですが、その人は風俗にハマってないか気になります。そういうのがあるので私は風俗で働けないんですよね。水商売やってないと、自分の人生のカードの持札を全部活かしきれてないような気がして、なんか煮え切らないような気持ちがするのですが、この人の相手をするくらいなら嫌だなと思います。でも東京行ったらやってもいいと思えるんでしょうか。

昔育成会で世話になった時に知り合った星の王子様のようなお兄さんがいたんですけど、私はその人の前で稚拙な屁をこいたことで罪悪感がありました。が、昔の話。そもそも帰りのバスで性器の匂いを撒き散らすカップルがいて、そのカップルは互いにバスの中で膝枕し合ってたんですが、その男がそのお兄さんで。よくよく相手の顔を見たら知らない人で。でも星の王子様のようなお兄さんは同じ育成会仲間の細いちゃきちゃきしたお姉さんと結婚したのですが、不倫してるんだと思いました。

いいですか。赤は血潮の正義、青は知性、黄色は間違う、緑は繁殖、これで説明がつきます。黒は自然、白は開発くらいなもんじゃないですか。