文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

祈りの技術

祈るというのは報われないけど願う行為である。「僕たちの祈りは決して報われないけれど」とアーバンギャルドダブルバインドは語るが、祈りにも技術があると思う。しかし祈る技術を磨いた人が精神病院に入院するのだと思う。それも人生である。

ぱやちのがこの程度のキャリアでCD出すとかヤクザな所業やってるのに「祈りをやってます」とbioに書いていて、お前の祈りは報われなくて当然だな!と思いました。

祈りというのは、祈り切らないといけないという点があります。たとえばぱやちのみたいに手先の欲望で叶えているとそういうのは言うまでもなくダサいという訳なのです。ぱやちの自体は好きなんですが、ぱやちのみたいな人が「祈り」とか口走っていると、西成の教会で本当のイエスを見てこいと思います。

祈りというのは、報われることを考えたら、凶が宿ります。今までなに言っているのかわかんなかったですけど、ここで一つ例を挙げます。祈りというのは、明日サンマが食べたいとかいうのはナシです。缶詰買いましょう。不漁でも300円くらいだせば缶詰食えます。叶いやすい願い事を言うもんじゃない。祈りというのは、禁忌を恐れない態度でもあります。たとえば、寺山修司に則れば「お母さんと結婚したい」とかどうでしょうか。5歳の気持ちではなく、15歳、25歳の精神で考えましょう。世の中にはいろんな家族がいるもんで、あんまりにも知的障害とか自閉症がひどいと、お母さんがそんな子供の人生を案じて、お母さんがマスターベーションのお手伝いをしたり、それはまあ常識の範囲内ですが、あんまりにも障碍児の切実さがまさると、お母さんの体でセックスさせてくれることもあるそうです。街録chで見ました。障碍者専用の風俗のお姉さんが教えてくれました。

お母さんと結婚したい、くらいの願い事じゃないと祈りとは言えません。ヒューズ飛ばして、キムタクと結婚したい、もなかなかの祈りだと思います。芸能界や美容界にまったく関係のない、山村の奥深くの野蛮な地域のブッサイクな少女が、松潤と結婚したい、とか言うのなら、それはまごうことなく「祈り」です。私は、松永天馬と結婚したいと言っていますが、それはわりと祈りのようであり、目標のようであり。微妙なターゲットです。

まず、祈りには祈る内容として「選ばれている」必要があることを申し上げました。次に、大事な「祈りの技術」について考えます。

祈りはマスターベーションとしくみが一緒です。毎日やっても尽きることがない、果てることない、ただの運動です。今日はレズものがうれしいな、とか、最近は失禁ものをみても悲しくなるだけだな、とかありますが、その体調を知るというのが祈りには大事ですね。無理な時に祈らない。祈りとほどほどに距離を取るのが大事です。

距離を取るというか、客観的になるというのが大事なんですよね。かりに、たとえば松潤が福岡にロケでくるとかなって、物理的に接近できんじゃんみたいな時にいかに平常心を保てるかといったら、マスターベーションと一緒で、毎日祈ることが大事なんです。祈りに、なにか習慣がついてくるといいですね。例えば、松永天馬で言えば、松永天馬集中習慣として、21時になると不惑惑惑を一生懸命一曲だけ聞く。とか。

もうオチをつけてしまいますと、祈りというのは報われないんですよ。アルゴリズム的に報われることもあります。人類松潤と結婚できる人はいるしその人はそらもう松潤のファンでしょ。でも、そういう人間の役割、側面からすると、祈りというのは別次元の問題に転化し、私のカルマは祈りによって報われたか、という点で見ると、喜びとは程遠いと思う。松永天馬と結婚しても絶対結婚しなきゃよかった、ずっと見つめ続けるだけがよかった、と思うはず

だけど、祈りというのは、祈るだけで勝利しているんですよ。きな臭い言葉にはなってしまいますが、祈りはどんな宝石よりも美しいんですよ。本気で祈っているならね。30にもなって、お母さんと結婚したい男の人がどんなにセクシーでしょうね、って話ですよ。

私の祈りというのは、まだ言葉にはならないんですよね。まず私の祈りがなんなのかを明前としないといけないのもありますが、それよりも先に私の祈りがどの程度のものかが30までには明らかにならないとやってられないと思います。祈りってのは、言い換えればその人の値打ちっていう言い方もできるかな。その人が何を望むかによってその人の魅力というのが測られますが、まあまずは何を望むかよりどれくらい自分の野望はかなえられるかが見たいというわがままがあります。だから占いに行っているんだよね。占いに行って当たるか当たらないか云々よりは、自分の人生はどの程度まで高みを目指せるのか知りたい。多分どこまでも目指していいんだよ。普通は。でも私の両親は、自由であることを許されなかった世代だから、私が障碍者年金で自由にやっていることに対して冷たい。

占い師にたくさん未来を思い描きましょう、とか言われるんですよ、言う人がいるんですよ、でもそう言われるとなんも思いつかない。やっぱり私はその時その瞬間でその日暮らしができる人生にしたい。今がっかりしているのは、友達が自殺したから、映像を撮ろうにも被写体がいないんだよな。自己実現と言えば、そこまで言ったら何者かになるまで決まっちゃうけど、そこまでじゃない段階、軽く創作するって時に、全然友達がいないのはネックだなと思う。人ありきの創作をするな、ということなのかな。海とか牡丹とか苺とかばっかり撮るか。ドトールにいる時の雑踏をどうにかして映像作品に昇華できないかな~とか思うけどやっぱりそこは人の会話であったり人ありきなんだよな。