文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

ハヅキ先生の音楽教室

わたしは音楽教室ハヅキ先生がなぜかなんだかだいすきだ。大人になったらハヅキ先生の着ている服を着たいと思うし、ハヅキ先生が揃えているような絵本を買いたいと思う。

今日もスキップして音楽教室に行く。ハヅキ先生は麦茶を用意して、わたしは少し話をして、ピアノを弾きはじめる。ハヅキ先生がわたしを褒める。「こんなに上手なら、将来が楽しみだねぇ」わたしんちはお父さんもお爺ちゃんも歯医者だから、それとなくわたしも期待されている。だけどわたしはハヅキ先生みたいになりたいのだ。ハヅキ先生みたいにピアノを弾いて絵を描くように歌を歌って、ほがらかに働きたいと思う。

わたしはハヅキ先生に聞いた。「ハヅキ先生になるにはどうしたらいいんですか?」
ハヅキ先生はきょとんとして、「ハヅキ先生はあんまりいいもんじゃないよ!」と笑いながら言った。……どうして?そう思いながらも何も言わずにテキストをしまって帰った。

音楽教室から家に帰るまでの道のりで、ハヅキ先生のほんとうの顔を考える。もしとんでもなく悪い人ならどうしよう。わたしが帰った後でわたしのことみそくそに悪い子だと思ってるならどうしよう。いつも出してくれる麦茶に実は洗剤を混ぜられていたらどうしよう。それに気づかないまま今まできているのならどうしよう。どうしよう。家についても寝ても覚めても、ずっと考えた。

学校で仲間外れになって、ビーカーの中身がどうなったかわからないまま理科の時間が終わる。いじめっていうのかもしれない。学校は退屈で、こんな時間を過ごすなら家に帰ったり音楽教室とか塾に行きたい。ふと、図書カバーの中に音楽教室で読んでいた本が入っていた。返さないと。そう思ってハヅキ先生んちに行った。

ハヅキ先生はおどろいて迎えた。「次のレッスンでもよかったのに!暑いから入って」

ハヅキ先生は麦茶とカリカリ梅を出してくれた。カリカリ梅を一瞬で食べて、何度も麦茶をおかわりした。
「ナナちゃんは今日は学校で何したの?」
「ずっと授業を受けたよ」
「そうなんだ。なんの授業?」
「理科。ビーカーになんか入れてて混ぜてどうかなった」
「へぇ。ナナちゃんは友達と何して遊ぶの?」
「友達は少ない、あんまり話したりしないよ」
「そうなんだ。学校、つまんない?」
「つまんないね。早く塾とか音楽教室に行きたい」

わたしは本をもとに戻して、積まれているCDに気づいた。絵本みたいなCD。
「これ、何の歌?」
「それは私の歌だよ。自分で作詞作曲して、録音したの」
「これ、欲しい…」
「え~?本当?いいよ。恥ずかしいけど!」

私は音楽教室から家に帰るまでの間、ハヅキ先生の曲を楽しみに待っていた。家に着き、お父さんのプレイヤーをぶん取り、再生する。

いつもわたしが聴いてるCDみたいに楽器がいろいろある訳じゃない、ピアノと歌のみが録音されていた。ハヅキ先生の声やピアノは絵の具みたいにぐんとのびていく。五月雨はさめざめと落ちていき、おばけの波動はきらきらと煌めき、希望のこだまはぷかぷかと泳いでいた。

ハヅキ先生の本当の顔は、音を聴くに、おっかない女なんだろうなと10歳ながらに思った。したたかな暗がり。ああ、おっかない女にはなりたくない。でもハヅキ先生みたいに、わたしも自分の曲を録音したいなと思った。思っただけで、実際やる気は出ないけど。

「たとえ君が言うことのすべてが嘘でも 信じ続けるよ」
そんな歌詞がぼんやりと脳裏に焼き付いた。麦茶に洗剤は混じるわけがない。

 

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「希望的観測」歌詞を拝借しました。