文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

時間をかけてみよう

私はインベガとデパケンを併用して数週間後、やたらめったら眠るようになった。

15時間寝た後にさらに4時間寝て、また夜も眠る。そんな生活が始まると、ものすごく悔しかった。今こじつけて考えると人からお金を貰って生活している身で惰眠を貪るのはとても悔しい。どうせなら発見のある日々にしたい。なのにずっと寝てばかりで寝違えても寝ることをやめられない。涼しくなって、本当に寝るのが楽しくなった。かと言って寝ることばかりに拘ってしまう自分が恥ずかしくてしかたない。他に芸はないのか。

無理矢理自分の目を覚まして外出するけれど、これもまた発見がある営みかと言えばそこまで期待できるようなことは起こらない。だって私にはお金がない。一日千円しか使えない。無理矢理起こした身体でベローチェドトールとマックをはしごするのはなかなか贅沢だと思う。

ベローチェでルイボスミントティーを飲んだあたりで私のテンションは昂ぶっていた。ベローチェを出た瞬間に「わたし、これからは今までと違うことしよう」と意気込んだ。今までわたしは何をしていただろう。ツイッターしかしなかった。ブログしかしなかった。喋ることしかしなかった。でももう空っぽだなあと思った。言いたいことがなくなった。

空っぽな中身に何を詰めようか。手あたり次第に何でも突っ込みたがるけど、お金がないので何も買えない。家にある本はとりあえず読んでいく。最近岩波の児童文学集がとてもいい塩梅に面白くて感動した。そんなことがわたしの宝物から何度も起ってくれないだろうか。

テレビが好きだった。わたしは一時期貪るようにテレビを見ていて、その時の知識でなんとか体裁を保っているところがある。今のテレビにかつてのテレビを求めるのは無謀かもしれないけど、今のテレビもまた今のテレビで面白いらしい。その今を体験できないのはずっと前からむずむずしていて仕方がない。私だって第七世代を知りたい。テレビを今日からたっぷり見ようと思った。誰にも邪魔されない時間帯に。

ラジオを聴いてみた。おぎやはぎのメガネびいきしかなかったのでそれを聴いたけど、おっさん臭くて気持ち悪いなと思ってたら実は小木さんが食事の栄養面では気配りのできる人だと知って好感度が上がった。と言っても小木さんのイメージは良くも悪くもない。どちらかと言えば悪かった。なんでかと言うと、たいして頭がいいわけでもないのにホラを吹きがちなイメージがあるからだ。まあわたしに頭がいい悪いでものの分別をされては馬鹿にされていると思った方が良い。とにかくラジオってこんなに面白いんだと思った。

わたしに足りないところは、時間をかけることだと思った。わたしは今小説を書こうものなら、一日で書き上げたくてしかたない。要するに焦っているのだ。焦っているやつの言葉なんてあんまり飲み込めないものだろう。そういう小説を書いていた。そういう小説を色んなところによこして断られてきた。また断れることだろう。なんで断られることにショックを受けるのだろう。次があるのは確かなのに。その次を脅かすほどの悲しみだろうか。

あんまりにも眠ってきて、今眠れない。そういう中での真夜中3時はなかなか辛い。いろんなことをして、眠れないんだなとなんども悟り、それでもツイッターをして色々考えては文字に起こす。ツイッターのリプに群がるお気持ち表明は、自分が誰かを救っているような体裁でありながら一番自分が救われたがっているような姿を見てしまうのはわたしだけだろうか。土井善晴先生は徳が深い。いっぱい群がっている。その徳の深さを裏返すと、実はからからとひからびた呪いってだけかもしれない。誰かに求められていることは、その逆の裏返しでもあって、求められてはいけないものを彼はその身に宿しているのかもしれない。しかし彼は食の伝道者なので、その呪いに打ち勝つことこそ人生なのであろう。

わたしの呪いはなんであろうか。わたしは誰に求められて誰に足を引っ張られて四苦八苦するのであろう。わたしは信じてもない魔界の扉を開けてしまった。わたしは何もしていないのに。わたしは世界から、もしかしたら宇宙からわたしの身を守るためにはやっぱりこれしかないのだろうというものがだいたい決まってしまった。齢25にして。それでもその頃くらいに姉と結婚した旦那さんよりはましなほうだと思う。

言葉で気づくよりも先に、Spotifyで検索して再生していた。シーナイーストンの「morning train」を聴いて歌う。聴きながら歌うとどういう形をしているのかがわからない。たまに振り返って自分の声を冷静に再生することができる。本当にそれがわたしの能力なのかは知らないけど。そこで私は洋楽を歌う時、洋楽に限らず、誰かの歌を歌う時とてつもなくダサくなることが判明する。その度に落ち込み、悲しむ。

morning trainの歌詞を改めて検索して、音楽なしで口ずさむとぼてぼての言葉で、舌がどうにも回らない。わたしの言葉じゃないことがわかる。わたしの言葉は歌じゃないらしい。こんなにも歌が大好きだというのに。それでも自分の言葉を録音して聴いて修正していけば様にはなるはず。学習とはそういうものだろう。文明の機器を駆使した黒魔術。でも、要らない。

夜中になって眠たくないなら、眠たくならないという直感がますます大当たりするばかりで、本を読むような精神状態になるはずがないし、かと言ってテレビもムカつくほどこの時間帯はやる気をなくして休みやがる。それでも天気予報は有難い。衛星放送もあった。有難い。こんな時にわたしを躍らせて疲れさせるものと言えばやはり文字なのであって、わたしは詩を書くのだろう。

でも詩は危ないものだと思う。あれも詩、これも詩だと言えちゃうから大嫌いです。なんでも詩と呼べるのなら今みたいな情けないくらい質の悪い精神状態も肯定されてしまう。わたしは今を肯定されてたまるかと思う。朝になって、ご飯を食べて、用事に出かけた時のわたしを褒めるなら褒めるがいい。しかし、夜の明るくなる間際の闇にまで眠たくないと駄々をこねるわたしに共感などという砂糖ひとさじを投げても何にもうれしくない。うれしくないどころか、わかってないですねと言いたくなる。わかってない。世の中の道理というものを全然わかっていない。

道理がわからない人のことをどうすればいいのか。たまにそういうパラレルワールドに引き寄せられることもあるけど結局はわたしが頑固なのでなんやかんやでうつつに戻る。道理がわからない人はその人はその人でその人の国を作るしかない。色々な国があっていいと思う。日本の中にも外にも。わたしはわたしが自分の国を持っているかと言ったらどうだろうか……多分誰も招待しないんだよな。

煙草が法で禁じられる時がくるのだろうか。そしたらお酒は?珈琲は?そういう私を脅かすもしもの最終手段が詩だと思う。言葉を禁じられた際、わたしは苦しむだろう。目と目で通じ合うのはわかりきっている。それを惑わすところに濃厚な浪漫があったはずだ。言葉は本音を誤魔化すためにあると信じて疑わない。すべての言葉は嘘なのだ。そういう私の言葉もまた。

本の総額表示が撤去されそうになっている。それを覆すには一時期のツイッターの勢いがない。本は、その時その瞬間を逃したら手に入らなくなるものになってしまうのだろうか。でもそれは、初から万物はそうなのではないか。それでも、人々が馬鹿になってしまうような魔法を国家がかけようとしているのなら。その賭けに乗るか乗らないかは今わたしの手には判断に余る。

とにかくひとつひとつの行動に時間をかけなければならない。意識的に。咄嗟には急ぐことも焦ることも必要だけど。今は落ち着かなければならない。落ち着こうとする中で見えてくるものもあるかもしれない。第一、わたしたちは意味について味付けの濃いものを好み過ぎているのだ。もっと素朴さとはなんだったかを考えなければならない。この文章もまた時間をかけているつもりなのではあるけど、実のところ終わりの文を引き延ばしているだけかもしれない。