あれから2週間が経ったところで、何も言うことがないです。ツイッターでもあんまり言葉を捻りだすことができません。あんまりツイートも読んでないです。ただびっくりすることがないかを探していて、特に何もないことがわかるとほっとしてスマホを閉じます。
ツイッターをすれば虚無というか暇というかそういうものから羽ばたいて飛んでいけた時代はとっくに終わってましたね。私が大学生……それこそ4年まではツイッター面白かった気がします。社会人になってから年々好きなツイッタラーの発言の質が落ちているような気がします。それは私が学生という身分が剥がれたことによりマジックが消えたからなのでしょうか。それとも私のタイムラインに新しい話者を積極的に取り入れるべきなのでしょうか。そもそもツイッターに世界を求めたところで自分が社会に参画できない限りは何を見てもつまらないのでしょうか。
最近本を読んでます。本当は本も読まずに時間が過ぎてくれたらいいと思っています。しかしちゃんと読みたい本を読んでいます。ちゃんと時間が過ぎて読了できています。
関係ないですけど、小谷野敦って悪口が思いがけない方向へ投げているところが「目を見張るものがある」と思ってフォローしているんですけど、「とちおとめのババロア」を読んで、意外とチャラい精神の持ち主なんだろうか~と思うようになりました。表題作はロマンティックなかおりがしましたが他の4作品はぶつ切りの具材みたいな語り口で、最近量読んでないのに勝手に印象を持つのは失礼だなって気づきましたが、4作品を読んで初めて(たまにツイッターでぎょっとするような勢いで批判するけど、恐らく実情はポップなのだろう)と思えるようになりました。
それからちゃんと安心して小谷野敦をミュートするようになりました。よくよく考えたらうるさくて獰猛だと不快になります。わたしもそういうところがあるから、なるべく必要がない限り喋らないでおこうと思います。
それを言ったら、ツイッターに必要ってあるのか。出版物に必要はあるのか。先日人と会ってその人が言っていましたが、やはり必要から逃れている状態こそ有難いものです。一見無職で自由な私ですが、気がつくとやっちゃいけない自由と日々闘っています。たとえば親を殴ってはいけないとか。自由過ぎても駄目なんだなというのが保健所とかの見解なんでしょうが、絶対この程度でこのまま生存してやると思っています。親は殴らないけど殴りたくなるくらいムカついているかもしれません。なぜなら私は余計なことを考えがちだからです。それでもムカついてしまったらそれは正直な気持ちですからどうしましょうか。
夏までに両親の無邪気な意思というか、純粋さ無垢さに腹が立つのに折り合いをつけなければならないです。夏がきて終戦記念日が来るまでに親にムカつくメカニズムを解明して、それに対して考え方を改めなければなりません。親は変わりません。私は伸びしろがあります。救いようがあるのは、私の親はソーシャルワーカー曰く優しい、いい親だということで、それを絶対的な評価として何度も振り返って確認して、親をどう評価するか(ムカつかないように)を考えなければなりません。
いい親だからと言って居心地がいい訳ではないです。私はいろいろ考えてしまうたちなので、可愛がりに私の方へ寄ってこられると被害妄想が炸裂してしまいます。そもそも近寄らないでほしいです。私は甘ったるい環境でぬくぬくと育ってきた小娘なんです。現在進行中で。だから今も昔も不幸ではないです。が、私が報われるとしたらこの実家の中でしかないのでしょうか。これも考えすぎでしょうか。
報われるとか報われないとか考えてますけど、ちゃんちゃんらおかしい発想でしょうか?何を以て報われると定義するとしたら、家を出ることだと思います。一人暮らしだと思います。でもそれがグループホームという修行を経て生活保護により実現するのは嫌でした。今誰かと同じ空気を吸うのが嫌です。自立できないにも、ちゃんと自分は被害妄想が酷いのはわかりましたし、私みたいな人はたくさんいるのもわかりました。
そのたくさんいる中で私が私たるためには、詩とか書きたいですけど、しかも福岡ポエトリーで発表したいですけど、今まったく詩の類が書けないです。どうしましょう。そういえば、先日会った人に「ツイッターで逐一報告してる」と形容されましたが、一晩寝かせて考えて思うに、確かに私はインターネットに報告してます。今となっては会えなくなってしまった部活の同期後輩に報告するわけでもなく、記録として保存をかけている訳なんですけど、これも報告ですね。誰に読まれる訳でもなく、言うならば未来の自分に読まれるべくあまねく文章の類を書いています。紙にも書きますし本垢でも書くのは誰かの暇を潰したい気持ちがあるからです。たとえそれが誰かにとって悪意に移り変わったとしてもやめないでしょう。
そうか。そうなんだ。合点がいく。私必要なものしか書かないんだ。インターネットに向けて書いている訳でもない。タイピングして、私は私の脳内に刻み付けている訳なんですね。じゃあ今詩が書けないの当たり前だな。そういうムードではない。そのムードが今後一切なくなったらどうしよう?って時のために、今まで書いてきた蓄積がある。読んでも、次何するべきか思いつくもんでもないけど、だからこそ読むべきなのかもしれない。
でも詩を書きたいものです。明日詩が生まれないかなあ。詩が生まれると同時に、詩が読めるようになりたいものです。ツイッターが全部面白かったあの頃に戻りたい!あ、別垢作って、リア垢と分ければいいのかな……。今となってはその作業に意義を感じるようには思えなくなったなあ。だって私つまらなくなったしなあ。言ってることが全部発見に満ちていた世界はどこへ?