文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

今年の五月は78.6キロ

去年の五月に書いた詩なんかを見ていると七万使っただけで罪悪感に浸っていて、今となっては毎月十万くらいは平気で使うようになってしまったため、去年の自分をどう位置付けていいのかわからない。今私は非常事態である。今もなお非常事態である。去年も作業所に行ってアウトサイダーを感じていたが、今もドトールに平日毎日来てしまいアウトサイダーである。要は働けばアウトサイダーであることは辞められるし、二年で20キロ太った体重も対処できると思うけど、なかなかそうは進まないのである。というのも、私は東京へ一人暮らしをすることになった。まだ物件は決まってないけど親を説得させることができた。あとは東京が私の入植を認めてくれればそれでいいのだが、まだ動けない。

占いに毎週通って3300円払っている。そこでタロットカードをして占うことには、今年の八月が太陽、九月が世界が出てしまった。だから八月あたりに照準を定めて動こうとしているのだが、無理矢理外出して無理矢理コーヒーを何杯も飲んで無理矢理暇を潰すのはもううんざりしている。その体たらくで体重も増えているのではたまったものではない。

でもこの無駄が血となり肉となり贅肉を肥やしたが、この贅肉は財産かもしれない。と言ってみたけど全然納得していない。松永天馬が好きで歌詞が血潮に刻まれているが、同時に寺山修司とか読むと言ってることが同じでなるほどこの思想体系を踏襲することでしか松永天馬は世に出ることができなかったのだなとか思う。松永天馬は寺山のフォロワーであることも言っているし、あとは菊地成孔とか町田康とかが好きだったと言っていたが、それらを読んでいくうちに「こんなもんか」というのがわかると思う。松永天馬に比べれば私は自分の言葉でツイッターをしている。

この間人と会った。自分の親が毒親であるか、は誰しもよぎる疑念であるが、毒親でないにしても、毒親でないことがこの程度のロイヤリティしかないのかと思うことがある。それが親だと思う。子に暴力をふるったり、ネグレクトやヤングケアラーを強いたりしないにせよ、生きづらさの原因である枷を強いているのはすべての親に当てはまるような気がする。ストレスがないと自分の色を持てないというのはあるが、それにしても、毒親じゃなくてもこんなもんなの? というのが最近よく思うことである。私の場合、だったら、糾弾できる事実をよこしてどの大人でも目に見えるくらい距離を置いた方がいいと判断されるのなら、毒親になってほしい。正直に生きていてほしい。じゃあ立派な親というのはどうなんだ? という話になると、三田佳子を思い浮かべるが、親が立派すぎても、その子供は大麻にしか救いがないのなら、やっぱり毒親がいいなと思う。どうせ子供は親から離れないといけない生き物に決まっている。ならば、毒親であることは素晴らしいことだろう。でも親から離れるだけの体力がその人に備わっているかどうか。実家から出られない人が多いだろう。チタンっていう映画の主人公ですら実家暮らしだ(後でその実家を放火して皆殺しにするのだが)でも毒親って、こっちが常に能動的に動くんであれば良い手駒になりそうな気がします。つまり、凶暴な牛はたくさん鞭で打って、後で同情の甘い砂糖一さじやるだけで、こってりと反省するものだと思います。そう簡単に行くもんじゃないけど。牛と言えば、お祖父ちゃんが家畜を飼っていたのですが、出荷する時涙を流すそうです。

洋服がない。これまた人と会った時に、見栄え的にはユニクロとかH&Mとかザラで固めた人の方がおしゃれだけど、本当に頭の中がぐちゃぐちゃしてお洒落なのは、いかにもオタ活やってそうなしまむらっぽい服を着ている人だなってのは思います。お洒落というか流行りに聡いというか。でもしまむらは洗濯すると消耗していくので、しまむら本当に好きじゃない。でも着てしまう。3Lのズボンがなかなかない。お尻が大きいので、意気込んでマルイとかで服を買いに行くと15000円くらい出さないとサイズがない。そして着てみるとあと5キロ太ったらアウトを感じる。最近は体重のことばっかり考えている。いつも憂鬱。統合失調症の先輩は「85キロまで行った」と言っていたけど、せめて80キロで止まりたい。原因はわかった。睡眠導入剤を飲んだ後、後追いでカレーライスを食べたりしているから。でもそうでもしないと眠れないんだよ。死ね。みんな死ね。製薬会社死ね。シンプルにいい薬を作れ。土曜日が過ぎてしまったから来週にならないと主治医に楯突くことができない。眠れないのはどうしてだろうか。季節の変わり目はいつも眠れない。最近は一時間おきに目が覚めて、トイレに行ったりだとか寝がえり打ったりだとかしてる。7時だな、って気づいてしまったら、それ以降寝直すことができない。本当は、いつもなら10時まで寝てもいいはずなのに、そうはいかない。夏になると朝日が眩しくて寝るに寝られないというのはあるかもしれないが、睡眠時間のペースを伸ばせないことにやきもきしているし、何より寝ていて熟睡できない。ぷつぷつと睡眠が切れていく。本当にムカつく。誰のせいだかわかったもんじゃない。もしかしたら悪霊が起こしているのかもしれないとはらわた煮えくりかえる。

最近は「面白くあること」にフラットになれた。自信がついたというのもあるけど、それを気にしだすと病的になってしまうというのがあるからだ。今日ツイートつまんなかったとしてもそれはそれでいいし、無理矢理ツイートを錬成して「なんかうるさいなあ」と思われたら無駄になってしまう。私ははっきり言ってみんなのためにツイートをしている。自分が面白いとわからせるためというよりは自分がみんなを和ませるためという気持ちでツイートしている。だけどその自負も無駄なものだなと最近わかってきた。無駄なことはやらない。無駄っていうか。無駄なだけならやってもいいけど、最近フォロワー減ったしやらない。

フォロワー減ったのはなんでか考えて、大体当たりはついているけど、たぶん自分の他者をディスったのが駄目だったと思う。在日とか学歴逆コンプとか。私はパフォーマンス的にやっていた自覚はあるが、それがネタとして消化できるほどの腕ではない。友達に絶交されたときのことを覚えているが、それも友達が論客の友達が欲しいみたいなことを言っていたので、私がそれをやろうと思ってやったパフォーマンスで「あんたの詩つまんない」と言ったら絶交されたのである。失敗したのである。失敗してばっかなのである。対策としては、私が叩いた人種にも赤い血が通っていることを自覚することなのかもしれないが。なんで私がむかついているかのオプションを考えていくと、試行錯誤するしかないなと思う。また誰かを叩いてフォロワー減って仕方ないと思うしかない。そこで思うのが、福岡の詩人界隈すごいなと思う。詩人は糞だと何度も言っていながら、フォロワーはそこでは減らなかった。でも言わせていただくと詩人は糞です。詩人は世界が狭い人ばっかりです。

占いに行ってタロットカードの面白さに目覚めて、タロットカードを買ってみました。タロットカードは過去のことはうまく言い表せることができますが、未来に関しては私が占ってみた感じなかなか当たらない。今から未来のことに関してはそんなに一生懸命考えないので、なかなか当たらないんだと思います。だけど過去に関して考える時、タロットカードに即した考え方はいくらでもできるので、それで当たるのかなと思ったり、それだけじゃないなと思ったり、タロットカードがよくできているだけなのかもしれないと思ったり。さまざま。一時期占い師になって日銭を稼ごうと思ったこともありましたが、今のところ無理でしょう。