文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

おじいちゃんの話をします

私のおじいちゃんは二人います。一人はけっこう前に死んで、もう一人は今も生きています。死んだほうのおじいちゃんはなんでかようしらんけどめちゃくちゃ私を可愛がっていて、気持ち悪かったですが、一回海に流されそうになった時に、海から掬い取ってくれました。昔はまあそれなりにハンサムだったんですが、自分のこと「小生」と呼んでいて、独特のマイワールドのある人でした。地元で議員もやったりして、やり手ではありましたが、口調がどやどやしていて、なんのこっちゃわからず、ただ声がバカでかくてビビってました。死んだほうのおじいちゃんは生きているおばあちゃんとつがいなのですが、生きているおばあちゃんもめちゃくちゃ声がでかくて怖い。昔は生きているおばあちゃんの顔がめちゃくちゃ怖かった。昭和の女優の晩年みたいな迫力があった。つまりは昔は美人だった人なんだろうけど、こちらの家に行くときはめちゃくちゃ怖かった。ある意味合宿だった。

今日話したいのは生きているほうのおじいちゃんの話をします。生きてる方のおじいちゃんはとにかく優しい。なんでも買ってくれる。否定しない。私の話に意見をよこすとかいう次元で生きてない。視点にいつも高みがある。昔はおじいちゃんのことを好きとか嫌いとかなく、ただ旨い飯が食える場所として利用していた。死んだおばあちゃんが寮母だったので、めちゃくちゃ飯がうまいのである。

だけど最近、大人になったなと思うのは否が応でもおじいちゃんの凄みに気づかされる場面が多い。っていうか。私が存在するということはおじいちゃんがいるからなんだ。この文化的財産というのも、全部おじいちゃんが築いた知恵あってのことである。うれしいのは、普通に話してると「おじいちゃんに似てるね」と言われることである。わたしはおじいちゃんのグルーヴが優性遺伝なんだなと思うと誇らしく思う。

おじいちゃんの話をききたくてもおじいちゃんは会話ができる状態じゃないので、ただものを食ってるのを黙ってみていることしかできない。

一回おじいちゃんのふるさとに行ったことがあるが、ロイホがいちごをケチってていい思い出がない。3日風呂に入ってない状態で温泉に入ったが、それはまあ楽しかった。けど温泉の近くは風俗街だったのが、なんていうか、駄目だなあと思った。