文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

自分を好きになるためには

いつもクレーム対応について考えている。バイトをやめることになったから、当分考える必要はないけど、クレームをするという状態について考えている。そこに関しては、なんとでも言える。いらいらしてた、とか正義感に駆られてとか、あるけれど、熱を帯びた怒りにどこまで付き合う必要があるのだろうと常々思っている。コールセンターでバイトしてた時も、半グレのおっさんが私の会社をいびりにきているんだけど、私は派遣社員なのだから、会社になんの恩義もないんだよな……と思っていた。恩義で会社は成り立っていないのだと知ることができた。

バイトならば、会社に恩義を尽くして働くことができるかなと思って、今回のバイトは一生懸命やったつもりだけど、一生懸命やりすぎたかなと思っている。クレーマーを対応している人を見るに、私の会社は、クレーマーのいうことを聴きすぎな肌感覚があった。クレーマーには、自己を内省する日がこないのだろうか……。そういう隙間を私の会社はやさしさで埋めていく。それが、日々のゼナや、ユンケルで、骨密度をすり減らしてしまうのであれば、なんと無駄なことだろうと思った二か月だった。

優しさや技術の鋭さは無駄であるということで今日のところは寝てしまおうか。そうはいかない。私は日々、占いの館に通い、占うことを学び、自分でもタロットカードをひくが、わたしがわたしを占っている時に、「もっとよく物事をこじらせて悩みつくしなさい」と言うことがある。他の人に占ってもらうと「大した問題じゃないから小手先の技術で乗り切ってごらん」とか言われるけど、わたしのタロットカードは違う。悩みつくすことである。優しさや技術、品質向上とは、人によってはインスピレーションの源になるどころか、怒りの種となる。

そんなときに活用しがちが感情が「かわいそう」である。どんなクレーマーもこの感情ひとつでこちらから謝り倒したくなる。すべてのクレーマーは、クレームの内容以外に、意志を持たないのである。つまり、ここのうな重が骨だらけなら、普通の日本国民なら帰って豚しゃぶとか作って気持ちをリフレッシュさせていけばいいのだが、クレーマーはそういう財産も乏しい。基本的にものを買う以外に自分の栄養を摂取することができない。どんなに。なんでこんな人がクレームをつけるんだろうとか思ってても。やっぱりこの人はどっかかわいそうなんだと思うと溜飲がおりる。私のコルセンの職場は民度がすばらしかったが、そういう感性が長けている人の集まりなんだと思う。かわいそうな人には謝罪でも侘茶でもなんでも差し出してご機嫌直してちょうだい~★と投げキッスしたくなる。

しかし、この「かわいそう」。途中形なのである。かわいそうの完了形はかわいい。すべての万物はかわいいにたどり着こうと艱難辛苦していく。クレーマーはかわいいの途中のかわいそう、であるのだが、あともうひとさじ砂糖をふりかけてかわいいということにできないだろうか。そう考えると、私は自分のバイト先にかわいいと思わせるだけの余地、というか借りができたことを喜ばしく思っている。ここまで私の人生を理解してくれる人がどれだけいるだろうか。普通バイト先に首になったと言えばあなたはバイト先にブスと言われたのねくらいにかわいそうに思われる事案だと思うのが普通だけど、私は、きれいになったねといつか言われるために今日の日があることを感じている。でも今日まで会った人には会えないだろうと思う。私が次会うのは次の世代だと思う。私は、西鉄バスの広告と不二家の広告のポエムをしたい。

自分を好きになるためには、ここまで対策を積み上げていておいて、なんの役にも立ってないというところから、私はなにをやってもうまくいかないんだなと思っているので、やはり自己評価は低いが、そんなわたしが最低限の自己愛はなんだろうと思う時、やっぱりブログやツイッターを読み返すとすぐ実感する。このパルスの無駄があるから、私は真摯に生きてきたと言えるし、明日も続きを書かなくちゃと思う。私は鏡を自作しないといけない。