文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

東京は行くまでのところじゃない

東京に引っ越しました。

一人暮らしをするというのは大正解だったと思うけど、それが東京であることは別に重要視しなくてよかったなと、重要視したくせに思っています。

東京というのは、パワースポットの乏しい都市なんだなと勝手に位置付けていて、福岡だったらこの人に会えばその日は元気になるというマンパワーがあったんですけど、東京の人はそれが枯れている人が多いなと感じます。むやみやたらに相手に元気を与えないという姿勢は省エネなのか処世術なのかわかりませんが、東京に染まるということは必要以上にはしゃがないということなんだと思います。東京というのは、と考えていくたびに軽く統合失調します。東京というお題でステレオタイプを連想していくのは、言葉に責任がのしかかる気がします。パフォーマンスの質の偏差値で言ったら、東京よりも地方都市の方が圧倒的に面白いと思っています。

 

客観性を獲得しないとヤバいよ、と松永天馬に言われました。別に主観性でカバーできるものはカバーできたでそれでいいじゃんと思っていましたが、グーグルマップにピン付けされた新潟の住所に行って、まったく知らない人の土地を訪ねてしまったことで、私は与えられた情報にはすべて意味があるという点で主観性が根深く、客観性が働かないんだなと思いました。まあ、グーグルマップの画像を見ても、ここに私にとって何か重要な意味があると意味づけるには、圧倒的に田舎過ぎるし農家すぎるし、画像を見ただけで「これはトラップだ」とわからないといけなかったのはありますが、二回新潟行ってるわけですね。その住所めがけて。一回目は嘘の住所だと思って行かなかったけど、最後までdoneしないと希望がむくむくと想像力豊かに羽ばたいてしまって、最後まであの住所に向かって私のグーグルアカウントには悪意あるアクセスがあったんだということを確認しました。

すべての意味に意味があるのか。それは、後から振り返ったらもっともなことがわかったとしても、その時わからないならわからないまま人生は続くし、気づかないまま一生終えても後悔することがないでしょう。すべての意味に意味があるとするから、統合失調症という病気にかかるんだと思います。幽霊とかいうモチーフを持ちだしたら、一生幽霊との因果関係を考察することで人生が終わります。そんなことより、もっと考えるべきことがあるでしょう。無敵の人はどうやったら人を殺さずに済んだとかを考えたり、東京についてのステレオタイプを連想していったほうが人生有意義と言えるものです。

客観性を獲得しないと作家としてヤバい、というのを今月末に学んだ、と言いたいところですが、どうしたら作品に活かせるかわからないです。多分、自分の希望するシナリオ通りに話を進めるといろいろと齟齬があらわれるんですよね。こうしたい!みたいな気持ちが強すぎると、強いがゆえにそうはできない時の可能性を考えられなくなる。書きながら書くことに対して少しずつ挫折していかないといけないのかなあ。のびのびと自分をやれるのは私は恐らくブログくらいです。

話は戻りますが、福岡にいた時がイマジネーションが豊穣だったんだろうなと思いながら、負けないぞと思いながら東京で一人アパートに籠ります。食べ物を調達するのが本当にめんどくさい。今までは家にいたらまずい飯があって、外に出かけたらロイホにありつけたから、それで豊かなポエジーライフができたのです。私は東京での居心地を獲得できないならすぐ福岡に帰ると思うんですが、私が贅沢をやめれば、っていうか、もう現時点で居心地はあります。ただ断定していいのかわからないだけです。

東京のオープンマイクは弾き語りばっかりで、そもそもオープンマイクというものは歌う場所だったのかなと思わないでもないですが、福岡だったらそこはオープンマイクじゃなくてライブハウスになるのかなと思います。東京でライブハウスとなったら、ある程度プロの人のものになってしまうからなんでしょうかね。