文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

椎名林檎なんかに人生を歌って貰いたくない

大人になってまで胸を焦がして
ときめいたり 傷ついたり 慌ててばっかり
この世にあって欲しい物を作るよ
小さくて慎ましくて無くなる瞬間

こんな時代じゃあ 手間暇掛けようが
掛けなかろうが 終いには一緒くた
きっと違いの分かる人は居ます
そう信じて丁寧に拵えて居ましょう

あの人に愛して貰えない今日を
正面切って進もうにも 難しいが しかし
実感したいです 喉元過ぎれば
ほら酸いも甘いも どっちもおいしいと

これが人生 私の人生
ああ 鱈腹味わいたい
誰かを愛したい 私の自由
この人生は夢だらけ

それは人生 私の人生
ああ 誰の物でもない
奪われるものか 私は自由
この人生は夢だらけ

 

椎名林檎なんかに人生を歌ってほしくない

椎名林檎に私の人生を絶対に想像させてたまるもんか、贅沢をやりつくしてまだ贅沢する人なんかに、私の人生のエスプリを知られたくない。私の味方のふりをするのをやめてほしい。贅沢にしか生きられない人が私の心に寄り添おうとすると反吐が出そう

私の人生は入力しないとわからないエラーばっかりで、エラーする度に怒られるんですよね、入力しないとわからないのに。私の夢は絶望の淵で咲かせた蓮のようなもので、その実グロテスクな幻想でしかない。夢を言葉にした時、天変地異が起こり、人生が終わる。夢は夢で、現実は現実で暮らしていく他なく、夢の端っこを掴みたいなら、東京に来ることだったが、馬鹿な私はそこで暮らしていけると勘違いしていた。東京は馬鹿には優しいが、干渉する人間がいない分、孤独なので、現実との境をまざまざと見せつける。

怒りが次に連ならない。本当はだらだらと長続きして怒っているのに、誰かに言葉を吸い込まれてしまう。怒りだけ残って、消化不良のまま、私は携帯を床に投げつける。

椎名林檎なんかに、そもそもどこかの誰かに、私の気持ちを代弁してなるものか。私は私の怒りや悲しみを自分で落とし前つけないといけない。しかし今ある怒り・悲しみは創作なんかに消化してたまるかと思うくらい私にとっては値打ちのないものである。だからブログに書く。

東京はいいところではないが、セーフティーネットがきっちり整備された強い街だと思う。したたかな弱者が生きるのにはふさわしい土地だと思う。私は弱者だが、強く脆い弱者なので、福岡がせいぜいお似合いだろう。

私は職を見つけられなかったので、東京で羽目を外すことができなかった。福岡だとロイヤルホストに行って散財するが、そういうのが申し訳なくて憚られた。だから福岡に帰って自分を落ち着かせようと思う。

東京に行ったら自立できるかと思っていたが、結局母親から逃れることはできなかった。母親じゃなくてもいいのだが、福岡のしがらみに縋ることになった。椎名林檎の言葉で言えば福岡にある友人が私の一生ものであり、少なくとも、松永天馬が一生ものである保証はない。

思えばブログの文字数も飛ばせなくなったし。帰るか、福岡。

 

追伸

私の人生を考えた時、創作を人生の軸に据えると考えた時。椎名林檎みたいに若造の頃から第一線で働く人を見ると眩しくてやりきれない気持ちになるが、創作をやるという指標で働きながら両立できるかというだけでもふるいにかけられる。創作をやって報われる、ではなく、創作を続けられるかどうかだけでも贅沢な財産らしい。一生仲間内で面白いねと言われるだけの小説でも、書いたら書いただけえらいのである。

書く人生と書かない人生とある中で、書かない人生のほうがうらやましいに違いないけど、それでも私は書く人生を選ぶと思う。悔しい。わたしより面白くない人ばっかりのさばって日銭を稼いでやりきれない。絶対そいつらより高みを見てやると思う。高みというのは、ローカリーな肌感覚での境地ではなく、単純にどれだけ読まれたかを競いたいと思う。

多く読まれる人生というのは、数を言えない人生でもあり、どれだけ無為な時間を過ごしたか、どれだけ人に怒られたか、どれだけ表現に制限を受けたか、つまりはどれだけつまんない日常をやりくりしてきたかでその人の値打ちが決まるもんだが、そういう世渡り的な指標を吹っ飛ばして、ただ単純に面白いものを描き、そのぶんだけ面白がられたい。ぶち抜くとは違う。ぶち抜きたいという野望は、身の丈以上にある。ベンジーはギターで時間を飛ばしてぶち抜くことができたが、トリプルファイヤーは一生ぶち抜くことはできない。今ぶち抜いてると言わない以上、ぶち抜くことはない。

私はよくもまあ野望を語り、周囲を沈黙させることがあるが、私はそれを恥ずかしいことだと思っている。ノーベル文学賞を獲りたいというのも、デコレーションした野望ではあるが、その中核の野望を野晒しにしたら総すかんを食らうと思う。野望というのは語れば語るほど遠ざかるが、欲しいものは言わないと手に入らない。ここで私は私を沈黙させたが、とにかく野望を語るのは野暮だと感じてきた。とはいえ文学新人賞を獲りたい。これは言ってもいいだろう。言っちゃいけないことを言ってしまおうか。たとえば。「基礎年金」という題の詩集を作り、全国各地で無料配布したい。基礎年金に値する栄養価の高い詩と詩人を探すのをライフワークとして、私のお眼鏡にかなった人材に依頼し、詩を書いてもらい、それを文春あたりの財テクを駆使して無料で売買する。あとは講談社小林司とタッグを組み、大々的な広告のコピー(というか掌編小説)を描きたい。講談社いとうせいこうとか山田五郎とか濃い影響力のある文化人を輩出していて、小林司もそういうことだと思うから、小林司講談社にいる間に、雑誌で小説を書きたい。こういう夢ばかり膨らんでいく。何もならないまま萎んで枯れて消えていく。あとは、松永天馬とイベントやりたい。いにしえのロックンロールカラオケをやりたい。まあこういうのを実現するためには、就労移行で支援を受けて自立し、小説を書き、賞を獲るしかないのだが。

あのさあ。私ってこれだけのことをやれそうにある人材に見えますか。見えるだけでは困るけど。昨日ね、保健所に行ったら潰れたデイサービスに500万円ネコババされたおばあちゃんがこの経緯を松竹に売って松竹が全面出資で映画を撮ってやるとか、次は私が区長になるとか言ってたんだよね。絶望の淵でまだ夢を語る人って怖くない?私もそうなのかなって思うことがあるよ。松永天馬と結婚したいという夢を語ることに関しては、自分でも怖いなって思うけど、それが思考回路全般にわたっているんだったら、もう少し成長したほうがいいのかなと思うね。自分で自分のことがわからないのは悔しいけど、こればっかりは人から言われないとわかんないよな。そして人によっても指摘する人とスルーしてくる人がいるので、人を選んで打診しないといけないよな。

松永天馬のブログを読んだことがあるんだけど、あの人野望をブログには書かなかったよな。こういうウェッティな筆感では書かなかった。松永天馬にそれを代表してほしくないけど、売れていく人ってやっぱり野望を語らないものなのかしら。でも私の目指すところは売れるではない。売れるではなくて、ぶち抜く。ぶち抜くというのは社会にではなく自分に。このブログだってそう、書く前の私にぶち抜く。書いていくことで私が私にぶち抜く。椎名林檎に任せてられないよね。椎名林檎はもうぶち抜かなくていいよ。たとえシティポップが廃れてまたロックの時代が来たとしても、椎名林檎はオワコンになってほしい。椎名林檎は違う方面で辛酸舐めないと駄目。オリンピックで味わった屈辱とは別に、金がないという苦しみを味わってから死んでほしい。