文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

占いを総括する

占いにだんだん飽きてきた。占う悩みが尽きてきたし、ここまできたら占いで当たってないことに直面することが多い。やはりタロットカードで占うとしたら12か月分の浮き沈みを占うとか、要するに未来を占うというよりは、今のこころのありようを見つけたほうがいい。カードの読みが間違っていても、「これは違う」と確かに思った自分という一つの答えを見出すことに意義があると思う。占い通りに行かない道筋も、それは確固たる自分の意志による力だと胸を張れると思う。

占いに10万費やして、10万程度のノウハウじゃ人生単位で考えたら甘いと思う。しかし、10万を超えて占いと向き合うとなった時、その人は占い師になってしまうんだと思う。私は占い師にはならない。副業でやってることが前提の職業だけど、占いガチ勢の占い師に占ってもらったからにはペーペーの奴に診てもらうと癪に障る。どうせカードで何が出たかまでは覚えきれない。占い師の言葉を検証するなんてのは10万かけてもできないものだが、10万かけて思うのは西洋占い師の摩耗っぷりだろうか。

私は中華系占い師と馬が合わない。中華系占い師は了見が狭い。そのものさしで、ズバズバと人を説教して日銭を稼いでいる。優しさとは読みどころの深さであり、それを感じない中華系の占い師は自己中心的に映り、あまり好きではなかった。

しかし、何か月か週2で占いに通っていると、占い師は職業で見ると、特にタロットカードといった西洋占いだとスレている人が多い。霊視を帯びたスピリチュアルなところに行くとファンタジーであることで客の日常は回っているという側面があるため、客の気を害することがなければのびのびやれるのかもしれない。でもタロットカード専門となると、占いの読み正確性を求められるのかもしれない。あるいは、他に弊害があるのだろうか。占いを催すことで求められるエネルギーの不調のケアをタロットを引くこと以外で課している客がいるのだろうか。それとも単純に、不幸な客が来ることで不幸の雰囲気を占い師は体験することになるのだろうか。

私は占うことがなくなったので、もう頻繁には行かないし、おそらく上京に際して持っていける趣味でもないような気がする。タロットカードや数秘術を勉強したのは収穫だと思っていて、職場等で発揮出来たらいいなと思っている。私は小説家を目指していた時期があるし、これから目指す道も小説家に近しい、というよりははっきり言って私はノーベル文学賞を目指しているので、日本の形式である出版社に認められて小説を出す、というやり方を選ばなくてもいいかもしれないと思っている。そういうわけで、タロットカード一枚ひいてそれが自分の人生にどんな意味をもたらすかについての知恵を出す力は、現役の占い師よりも優っている自覚がないとおかしい。だからまあ、占いに行くのは取材も含めて、身銭を切った勉強だと思っている。

にしては、占いってなかなか私の人生に希望を見出したりしないな~と思った。手放しでうまくいくとか言うのが、霊視とかスピリチュアルな占い所だと思うが、私の行きつけの占いはちゃんと私の人生に責任感を持って読んでくれているのかもしれない。単に統計学という学問の理念に沿って動いているだけなのかもしれないが、統計を出すことに情熱を感じているのかもしれない。

占いに行けば私の悪霊の話ができると思ったけれど、なかなかうまくいかない。普通に否定されることになった。それは霊視でもそうで、守護霊がついているとは言われたけれどそれが現存している魂であるかどうかについては疑問を残すような回答をしていた。誰も真実は見えていないのである。真実は何かを考えたとき、見たいものを見ることでしかない。そこに矛盾はあっても、検証されて間違えていることがわかっても、深淵を見ること、恐れることに人間の意志の矜持ってものがあるはずだと思う。