文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

オタクって本当にその分野のこと好きなんですか

当たり前のことを明文化したところで世界はなにもしあわせになれないはず。

それでも好きなことを言って自分をしあわせにしたい。でも世界にとってそれが不満につながるのだとしたらそれは私のしあわせではない。

 

私は中国語検定三級を持っている。その検定試験を受けた帰りにメイド喫茶に行ったら、誰にも手厚くもてなされず、まあそれが普通なのかもしれないが、メイド喫茶の中で私は浮いた。どこにも馴染めず、店に置いてある「なんでもノート」に「つまんなかったです」と書いて店を後にした。自分へのご褒美が実は苦行だった瞬間だった。

私はオタクになれなかった。いかにもオタクのような湿度とテンションを持っておきながら、いわゆるオタクにはなれなかった。漫画の趣味は松本次郎とかジョージ朝倉とかが好きでどちらかと言えばサブカル系だと思う。アニメで好きなのは本当に超有名古典系だけで、ジョジョですらろくに履修していない。ジョジョのアニメは若いからなんとなく見る気になれないかもしれない。

コンカフェには行くけど、コンカフェ文化自体には疑問がある。帰り際が寂しいのが当たり前。どんなに喋っても消火する瞬間は寂しいし、喋らなかったらそれはそれで寂しい。通っているコンカフェははっきり言って今は展示目的で来ている。コンカフェというよりはおしゃべりができるアートギャラリーと思っている。この話をコンカフェでしたらオタクってなんだろうという話になって序盤のメイド喫茶からのオタクの話になった。

オタクという定義は知識をひけらかすことにあるらしい。コンカフェから自宅への帰り道、いかにも声優オタクがクイズを出し合ってキャッキャ言ってた。情報量で人は自分の趣味嗜好の度合いを測るものだとしたら、まだまだ浅はかだなと思った。残酷なことを考えてしまった。

好きなものじゃなくても勝手に知識は目にしたら吸収してしまう。だからツイッターは劇薬なのだが。本当に好きなもの、の本当にあたるもっともらしさを検討するにあたって、その尺度を求めている時点でそれは好きなものを好きでいるという本筋から離れている。大体、私は文章を捻りだすことが好きなのだが、そこに知識量は要らないだろう。好きなことは情報量で導かれるほど分かり易いものではなくもっと抽象化していて単純なことなんじゃないか。たとえば最近風が気持ちいいとか。そこに理由を見つけると風の気持ち良さから離れてしまう。

きっと、世の中のオタクは、目に入った好ましいものを敢えて執着するふりをして暇をつぶしているだけなのだろう。それが処世術なのだろう。でもオタクが市民権を得るどころか優性特権を得ている昨今、人口が爆発していて、見ていて面白みがなくなった。むしろオタクの性質である「好きなものはとことん消費していく」という側面が、日に日に下品な様相を帯びているような。今に始まったことではない。昔物珍しかっただけで何も思わなかったのかもしれない。

好きなものはとことん消費したその先、世界は滅亡しませんか?世界を何度も作り直すバイタリティが老後にあるなんてありえないですからね。好きなものは、好きだからこそ自分から切り離して、自分の中にあるその幻想は心の中で育てていく必要がある。その幻想が幻想であることに折り合いがついたら、本当にそれが好きだったと言えるんじゃないのか。

 

追記

関係ないけど、インターネットに浸かっている今、今まで人類が積み上げてきた知恵を人々は忘却してしまっている気がする。さりげない示唆のさりげなさを世の中の、インターネットでやかましい人ほど知らない気がする。私はある仮定を抱いていて、これから証明できるかどうか生きてみたいと思う、そんな仮定を今から勇気を出して挙げてみるが、「本当に賢い人ほどなにものでもない」というのがある。なにかになった瞬間から、自分と言う豊かな牙城を削っていく羽目になる。それを打破するためには、やはり演じること、嘘をつくことであり、自分の今抱えている職業のやりがいと自分自身のルーツというかプライドのようなものは実はかけ離れているのだという状況を常に持ち、納得していないといけない。

私は今、仕事を持たない。そして常に正直である。恐らくやりたいこととやりがいを一致させないと、職場で号泣してしまう。