文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

しんしん 深淵の一月 夜の闇を煮る

夕方になって、楽しい気持ちでいると、いつ寝るか不安になる。この気持ちも寝ることでリセットしないといけないと思うと、寝れないな~と思う。雪が降る。しんしんと冷たさが募り、一月は冬を極めて深淵を迎え、私は長い夜の闇を煮る。煮詰めて、煮詰めて、黒焦げになったらいいなと思う。

私は去年の9月に同志と言ってもよかろうげな友達が自殺未遂ガチャに多分失敗して死んだ。その辺の思考整理が落ち着いて、どういうわけか、自殺未遂という宝くじってあるんだな~というところに至った。遺族の方からすれば罰当たりな友達になってしまったが、寺山修司が20代のころ病気がちだったこと、菊地成孔が20代のころ臨死体験をしたこと、を考えると、私が目指す高みには、ある程度死について取り組んでないとまずいのを感じた。そこで、友達が死んじゃって、とても悲しいけど、死ななかった時の未来を考えると、それも悪くないなあ……と思った。臨死体験は、人生のガチャである。失敗したら死ぬ、成功したら、チャクラが開く。

死のうかな~と思いつつも実行に移せないのは、たぶん死のうとしたら死ぬからだろうし、死ななかったとしても入院したりするだろうし、何より、「自殺未遂をしたわたし」として家族と接するのがめんどくさいなと思っているのでやらないでいる。痛いの嫌だし。もし死ぬとすればロキソニンODくらいかなあ。そもそもコロナにかかればいいのか。ぶっちゃけ、インフルエンザくらいでも一週間なにもできないという状態さえあれば名記事を書ける要因になれる。インフルエンザくらいでいいんだよな。っていうかカキフライで当たんないかな。カキフライうまい。

夜がなかなか煮詰まらない。死ぬことを考えるといつもこうだ。いつも明るくなってしまう。これも才能なのかもしれない。死にたいと考えたら、どうやったら無化できるかを考えている。カキフライを食ってしまったら、もうしあわせである。カキフライ、つまりは海鮮はいい。いつ食ってもいい。まず不幸なときには食うべし。カキフライを食えるこの時代にそこで感謝がうまれる。今日のわたしみたいなすこぶる調子のよい時も食うべし。不幸である時の差を楽しむことができる。不幸な時の感性があるから、しあわせが樹立できる。しあわせな時をどれくらいしあわせかが測れるその自分の生のデータに感謝することができる。不幸じゃなくても、しあわせじゃなくても、海鮮というのは今を逃しては楽しむことができない。なぜなら、これから人口が増えていく地球は、海が汚くなるからだ。海が汚くなると、牡蠣はおいしくなるが、他はそうでもないので、今を逃さずに海鮮を、海鮮じゃなくても、おいしいものを逃さずに食うというのは大事、必須科目である。

おいしいものをおいしいときに食べる。このような贅沢をできるのはこんなに恵まれた日本人であってもほんの一握り、本当の人間の暮らしというのは、農業をすれば自然から裏切られ続け、漁業をすれば海に足をもがれ、第三次産業に従事したとしてもカスタマーの要求に応え続けないといけない。そんな中で、消費者であり続けるということ。労働者に支えられ続けながら、消費者でしか生きることがままならないということ、は、冷ややかな視線を受けるわけだが、胸を張って生きていいと思う。だってあなたが海鮮丼を食わないと、世界が始まらないのだから。海鮮丼はパフェと言い換えてもいいし、パフェはセックスと言い換えてもいいだろう。でも私は海鮮丼と言う。多分ね、回転ずしで寿司を食ったら、やくざの密漁に片足突っ込むことになるんだろうか。そこらへん賢くなんなきゃな。やくざが閉経したお母さんに中出しする深淵があることで、いくらが120円なら、食わないよ。

生活保護だって障碍者年金だって、貰って好き勝手やろうよ。これは生活保護は駄目かもしれないけど、お金が足りなかったら働けばいい。柴田聡子が給料から天引かれる年金に腹が立つと言っていても、その年金を貰うことに怖気づいてはいけない。だったら、今まで食べてきた牛肉も豚肉も鶏肉も、意味をなすことができない。地下アイドルが彼氏との逢瀬を節約してチェキを撮って、そのお金でアイドルが彼氏とディズニーランドに行っても、トレンディエンジェルのたかしは許さないかもしれないが、たかしも黙らせる事実として、アイドルはアイドルをやめる日がくるからアイドルなのだ。

今日はとあるミスiDが自殺したのが公表された日だが、まっとうな感性ならダサい自殺だなと思うはず、だけど死にたきゃ死ねばいいんすよ。あんたが死ぬことで生きていける人たくさんいますからね。空いた職のポストにはほかの誰かがやりがいを見つけてくれるし、なにより、あなたがひとり死んでくれることでインターネットからゴミが減ります。どんなにいいこと言っても、ゴミはゴミなんですよ。あんたが死んでくれて、あんたが食べるはずの海鮮丼がわたしにありつけて、本当によかったです。

でも、かえでちゃんに限って言えば、いくらでも海鮮丼はんぶんこするし、あと三回はお茶したかったなあ。そんな人がいたこと、そんな人が死んでくれたことで気づけたこと、そのままその人が普通にしあわせになったことで私からその人がはぐれていく人生もある中で、わたしからしたらハッピーエンドかもしれません。でも、今まで起こってきた出来事が全部正解だったのか。その問いと同じことかもしれません。私は今日も海鮮丼を食べそこないましたし、一昨日私は海鮮丼を食べることで海鮮丼を無駄にしました。どうしたら死ぬことが正解で、死ぬことが不正解で、生きることが正解で、生きることが不正解なのでしょうか。まあ、まずは、おいしいものを食べてからにしましょう