文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

才能の神話解体

最近のブログがなんかつまんないことに気づきました。最近というか、2022年で言えば3~6月にかけてのブログがつまんないので、気を引き締めて同じテーマを書き直そうと思います。

今日は「才能」について神話解体していきたいと思います。才能というのは、自分の言葉がどこに置かれると自分がしっくりくるか、を見つけてるかどうかなんだと思います。松下育男が「詩の教室」で「雑誌に載ることを目標にすると疲れるので、自分の詩を発表するところがどこかをちゃんと持っておくことが大事」というようなことを言ってた気がします。

現代詩手帖に載る詩も立派だけど、そうじゃない詩もたくさんあり、世の中に根を下ろしていくためには、まず形にして、発表する媒体を探して、発表して、在庫を切り盛りしていくのが世の常ということなのでしょう。自分のポエムの居場所、どこで発表すれば満足か、というのは、まあいろいろあるでしょう。オープンマイクに、ワークショップ、イベント、などなど。ブログに書くのもそのひとつでしょう。

脚光を浴びる詩があります。いやはや、脚光を浴びる詩人がいます。でもそれは、今だけ。生涯現役を目指すなら、脚光を浴びないほうがいいのだ。―――と占い師に言われました。ここずっこけるところです。書いていたけれど、書くのをやめるとかやめないとか。そういうのもまた才能というワードで語られる範囲なんでしょう。

 

今回のブログは眠いっていうのもあるし、書きたいことが先行文献によってあらかじめ言い切ることができたので、ブログはここまでです。眠いし、短い方がさっぱりしてて読みやすいというのもあるよね。長く書くことにこだわりあったけど、あんなつまらんブログ書くくらいならすっぱりやめた方がいい